ちくほう‐たんでん【筑豊炭田】
筑豊炭田
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/24 18:06 UTC 版)
筑豊炭田(ちくほうたんでん)は、福岡県の北九州市、中間市、直方市、飯塚市、田川市、山田市と遠賀郡、鞍手郡、嘉穂郡および田川郡の6市4郡にまたがる、かつての日本の主要な石炭の産地である[1]。殖産興業の推進、八幡製鐵所の設立などを背景に財閥企業・大手資本が進出し、炭田の開発は急速に伸び、全国石炭の半分以上を掘り出したこともあるなど、戦前は国内最大の炭鉱地帯だった[2]。
- ^ a b “筑豊炭田について”. 直方市石炭記念館. 2018年6月4日閲覧。
- ^ a b “筑豊炭都物語”. 飯塚観光協会. p. 3. 2018年6月4日閲覧。
- ^ 誰か昭和を思わざる 大正ラプソディー (大正2年1〜6月)[出典無効]
- ^ 日外アソシエーツ編集部 編『日本災害史事典 1868-2009』日外アソシエーツ、2010年9月27日、82頁。ISBN 9784816922749。
- ^ 「中小鉱の被害多大」『日本経済新聞』昭和28年6月30日 3面
- ^ 小出博 「炭鉱も都市も被害を受けた」『日本の水害』p11 東洋経済新報社 昭和29年9月10日
- ^ 政治よ追いつけ1 エネルギー革命 進歩の陰に犠牲続出『朝日新聞』1969年(昭和44年)12月15日夕刊 3版 10面
- ^ 嘉麻で2団体の子育て世帯支援始動 根深い貧困、物価高…支え合い根付くか『西日本新聞』2022年(令和4年)8月5日付
- 1 筑豊炭田とは
- 2 筑豊炭田の概要
- 3 人口の増大と減少
- 4 関連項目
筑豊炭田
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1932年、福岡県嘉穂郡に生まれる。父・要蔵、母・タネヨの次男。両親とも愛媛県西条市の出身であった。のちに地元の支持者が調べたところによると、先祖は西条藩に仕えた村上四郎左衛門忠朝という人物で、さらにさかのぼると村上水軍に発しているという。 父・要蔵は遊び好きで財産を失い、故郷を追われるようにして筑豊炭田に移る。父は「先き山(リーダー)、母は「後ろ向き」(助手)として炭鉱労働に従事した。そうした中、炭鉱住宅で正邦が生まれる。しかし要蔵の遊び癖は変わらず、夜逃げなどで筑豊炭田のあちこちを転々として過ごす。 戦後、田川郡添田町の三崎炭鉱の炭住から川崎町の定時制高校に通いながら、昼間は三崎炭鉱労働組合の事務所で給仕として働いた。組合長の山本文男(のちの添田町長、全国町村会会長)の引きで測量課の職員として、三崎炭鉱の正式社員となる。一方、組合運動も続け、代議員も勤める。1951年(昭和26年)には組合の御用化に憤慨して書記長選挙に立候補するが、落選する。 そうした中、定時制高校の恩師の勧めで、1952年(昭和27年)拓殖大学政経学部の補欠試験を受け、入学。
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