中立国人および無国籍人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:49 UTC 版)
「第二次世界大戦」の記事における「中立国人および無国籍人」の解説
在日人数が約200人以上に上ったスペインやポルトガル、バチカンや、チリやアルゼンチンなどの遠方の中立国の外交官や駐在員、通信員や船員、留学生の多くは、1939年以降はヨーロッパ各地も戦火に見舞われたためヨーロッパ経由での帰国が困難になり、さらに1941年12月以降はアメリカやカナダなどが参戦したために、これらの国経由での帰国も全くままならなくなってしまった。 ただしソ連だけは、日本海およびシベリア鉄道経由で1945年8月9日の開戦まで自由に行き来できた。またこのルートは、ビザが発行される限りアフガニスタンやトルコ、スウェーデン、スイスなどの中立国への帰国にも使われた。また巨人軍のヴィクトル・スタルヒンなど白系ロシア人は無国籍扱いであったが、幸いなことに日本ではソ連人と同様中立国人の扱いであった。またポルトガル公使館とマカオ、ティモールとの交流は、両地が日本の占領下に囲まれていたことから、比較的自由に行うことができた。 これらの中立国の国民はこれまで通りの生活、仕事を続けられ、配給以外の食料も潤沢に与えられた。駐日スイス公使であったカミーユ・ゴルジェ(ドイツ語版)以下スイスの外交官は、対英米開戦後に日本政府が委託した中立国の外交官として、赤十字国際委員会の中央捕虜情報局の傘下に置かれ、日英米交換船の運航がきちんと行われているかどうかの同乗確認や、日本全国に及んだ連合国の国民の抑留所の監視などを行うなど、その信頼は高かった。 1943年9月以降外国人に居住不可地域が設けられたり、1944年夏に連合国軍による本土への空襲が増加すると予想した後は、中立国人の多くは軽井沢や箱根などの別荘地にあるホテルや別荘へ疎開して活動した。もちろんこれに伴う引っ越し費用は全て日本政府が負担した。 特に、これらの中立国と枢軸国の約300人の駐日外交官と、およそ2000人以上の一般外国人の疎開地となった軽井沢では、利便性を考え三笠ホテルに外務省軽井沢出張所が設置され、1944年8月には民間の貸別荘だった深山荘にスイス公使館が置かれることとなった。 ソ連の大使館は1944年末以降は同じく疎開を主な目的に、箱根の強羅ホテルに置かれた。1945年当時、ソ連を通じた終戦交渉を模索していた外相東郷茂徳の意を受け、広田弘毅元首相がヤコフ・マリク大使と数度にわたって接触したことが知られている。 また1945年初頭には、軽井沢にフランス(ヴィシー政府)大使館、トルコ大使館(同年2月に対日宣戦布告)、アルゼンチン大使館(同年3月に対日宣戦布告)、アフガニスタン公使館、ルーマニア公使館、ポルトガル公使館、スウェーデン公使館、スペイン公使館、スイス公使館、デンマーク公使館(同年5月に対日宣戦布告)と赤十字国際委員会などが置かれ、または疎開していた。 終戦により日本が連合国の占領下に置かれたことで、これらの中立国の外交官は、日本が連合国の占領下に置かれ「対象となる国家が存在しなくなった」ため、家族ともども連合国の船で帰国した。
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