中立地帯の設定とは? わかりやすく解説

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中立地帯の設定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 19:17 UTC 版)

モレネ」の記事における「中立地帯の設定」の解説

ナポレオン戦争終結後1814年から1815年にかけて開催されウィーン会議は、ヨーロッパ秩序回復諸国間の勢力均衡掲げて領土再配分行ったウィーン会議新たに設立されネーデルラント連合王国オランダ)とプロイセン王国との国境線も、このとき画定されることになった両者はほぼ従来境界線踏襲することで合意したが、アーヘン南西位置するモレネ一帯めぐって争い生じた。この地域には、亜鉛真鍮加工のために必要な菱亜鉛鉱鉱山があったためである(当時ヨーロッパで亜鉛生産できたのは、モレネのほかにはイギリスブリストルだけであった)。フランス語でヴィエイユ・モンターニュ(Vieille Montagne)、ドイツ語アルテンベルク(Altenberg)と呼ばれたこの鉱山(意味はともに「古い山」)は、もともとのモレネ (fr:Moresnet) の東に位置した1815年12月以降プロイセンオランダの代表はアーヘン近郊会合行い1816年6月26日モレネ3分割することで合意達した東部プロイセン帰属。「プロイセンモレネ」プロイシッシュ・モーレスネット(Preußisch-Moresnet)と呼ばれた。現在はノイ・モーレスネット (fr:Neu-Moresnet) (de:Neu-Moresnet) と名を改めケルミス市の一部となっている。 中部亜鉛鉱山とそれに附属する集落現在のケルミス)を含む。将来あらため合意結ばれるまで当面のあいだ両国共同統治区域とした。双方軍隊をこの区域進駐させることは禁じられ中立地帯にとして共同管理が行われることとなった西部オランダに帰属。もともとのモレネはここに含まれるモレネは、現在プロンビエール市 (Plombières) の一部となっている。

※この「中立地帯の設定」の解説は、「モレネ」の解説の一部です。
「中立地帯の設定」を含む「モレネ」の記事については、「モレネ」の概要を参照ください。

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