七塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/23 14:07 UTC 版)
佐藤兄弟塚(さとうきょうだいづか) 兄弟の名前を取り、継信忠信塚(つぐのぶただのぶづか)、単に兄弟塚(きょうだいづか)ともいう。善光寺山門西側にあり、石造宝篋印塔の名で長野市指定有形文化財に指定されている。石塔二基があり、佐藤兄弟の母、乙和御前により1187年(文治3年)に佐藤兄弟の供養塔として建てたと伝わるが実際は鎌倉時代の風をなしておらず、西側の塔には逆修の文字と応永4年(1397年)の銘、21人の法名が刻まれていることから逆修塔であるとされる。木造の塔に似せた造りで、北信濃の建築様式がみられるなど、珍しい塔である。 柏崎塚(かしわざきづか) 柏丸塚(かしわまるづか)とも。新町の南、伊勢町との境付近にあったことは複数の文献に見えるが、『長野繁昌記』発行年の1903年(明治36年)当時、すでに跡形もなくなっていたという。現在は新町の地蔵庵に石塔と柏崎地蔵があり、これを伝える。謡曲「柏崎」の登場人物、柏崎の塚と伝えられている。 虎ヶ塚(とらがづか) 虎が塚とも書く。前述の虎小路の中ほどにある。曾我兄弟の長男曾我祐成の妾、虎御前の墓とも、虎御前が曾我祐成の墓として建てたとも、曾我兄弟と虎御前の遺物を収めたとも伝わる。虎御前の塚と称するものは全国にあり、その理由は様々に言われている。付近には虎御前が庵を結んだとされる虎石庵跡がある。 刈萱塚(かるかやづか) 往生地の往生寺にある。往生寺境内の来迎松の前にあり、刈萱同心の墓である。 姫塚(ひめづか) 姫ヶ塚(ひめがづか)ともいう。若里の信州大学工学部の北西、佛導寺墓地内にある。塚に生える巨大な欅は長野市の保存樹木に指定されている。出家した熊谷直実の娘玉鶴姫が父を訪ねここで病死しその場で葬ったと伝わる。塚の上には延宝6年(1678年)の五輪塔と、元禄15年(1702年)の由来碑がある。 時丸塚(ときまるづか) 三輪八丁目にあり、1996年(平成8年)までは圓通寺西50メートルのところにあったが、現在は圓通寺内にある。近隣の時丸寺の開基、時丸の塚という。 行人塚(ぎょうにんづか) 中御所四丁目の木留神社境内北西のものと、中御所五丁目小山印刷所裏手のものがある。前者は、もともと中御所四丁目、吹上地蔵堂境内にあり、後者は区画整理の際に移動している。後者が七塚の行人塚だという。しかし近世の文献にはそろって栗田にあると記されており、『長野県町村史』には栗田字源太窪に行人塚を描いた地図を掲載している。 盲人塚(めくらづか) 1924年(大正13年)発行の『信濃名勝案内』にのみ貴人塚(きじんづか)とある。現在の旭町の合同庁舎敷地内にあり、石室が露出し石地蔵が安置されていたというが現存していない。地蔵は三輪田町に移されている。当地の字、盲塚の名の由来となっている。 源太塚(げんたづか) 栗田字源太窪にあったが、現在長野駅構内のJR東日本長野支社総合事務所敷地となっており、現存しない。現在は近隣住民の手により栗田字西番場に祠が移され、由来碑がたてられている。悪源太義平(源義平)の墓と伝わり、義平の妾が遺骨を埋葬したとされているが、『上水内郡史』には栗田寺(=寛慶寺)別当寛覚の墓としている。
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七塚(ななつか)
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「詩人は一日にして成らず」の記事における「七塚(ななつか)」の解説
AV会社の社長。愛田連童の雇い主。愛田連童を「ラブ」と呼ぶ。
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