ヘレニズムとイラン世界
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/23 20:15 UTC 版)
「イランの歴史」の記事における「ヘレニズムとイラン世界」の解説
詳細は「セレウコス朝」、「ヘレニズム」、および「パルティア」を参照 アレクサンドロスはハカーマニシュ朝を征服して間もない前323年にバビロンで没した。アレクサンドロスの将軍達はその後継者たるを主張して相互に争った(ディアドコイ戦争)。この争いの末、イラン世界の大部分はセレウコス1世によって建てられたセレウコス朝の支配する所となった。アレクサンドロス時代からセレウコス朝時代にかけて、各地にギリシア人・マケドニア人(以下一括してギリシア人と呼ぶ)による植民都市が多数建設された。特にセレウコス朝は各地にギリシア的なポリスや、将来のポリスへの昇格を前提としたカトイキア(軍事植民地)の建設を行った。こうしたセレウコス朝の都市建設政策によって作られたポリスやカトイキアを拠点にギリシア文化やギリシア的な社会制度の普及が進み、ギリシア語はイランでもアラム語と並ぶ共通語となった。こういった文化的・社会的な潮流はヘレニズムと呼ばれる。 だが、セレウコス朝の植民政策は圧倒的にシリア、次いでバビロニアを中心としており、イラン高原より東への植民は規模からすればかなり限られたものであった。東方のサトラペイアの支配者たちはセレウコス朝の西方重視の姿勢に反発し、前250年前後にはバクトリアの支配者ディオドトス1世や、パルティアとソグディアナの支配者アンドラゴラスが相次いで独立した。ディオドトス1世は王国(グレコ・バクトリア王国)を存続させることに成功したが、アンドラゴラスの領土は独立後間もなくアルシャク1世(アルサケス1世)に率いられたパルニ氏族を中心とする中央アジアの遊牧民部族連合によって征服された。彼らはイラン系の言語を使用していたと考えられ、パルティアに定着し、一般にパルティア人という名で呼ばれるようになった。このパルティア人の王国がアルシャク朝(アルサケス朝)である。アルシャク朝は100年余りの間領土奪回を図るセレウコス朝と争った。これはセレウコス朝の王アンティオコス7世(前139 - 前129年)の敗北によって大勢が決し、セレウコス朝はシリア以外の領土を完全喪失した。一方アルシャク朝は戦いの中でバビロニアとイラン高原及びその周辺地域を支配し諸王の王を称するようになった。 アルシャク朝は遊牧民的な気質を強く残しており、王の宮廷は常に移動した。政治では有力な貴族が大きな影響力を持ち、その領地の経営には中央の統制はあまりかからなかった。アルシャク朝の領土、特にバビロニアを中心とした西部にはギリシア人やバビロニア人の多くの都市があった。ギリシア人は特にアルシャク朝の支配下にあってもそ政治・経済・文化の面で強力であった。コインの鋳造技術はギリシア人が握っていたし、軍事的にも大きな存在であった。アルシャク朝はこのギリシア人に特に配慮し、ミフルダート1世(ミトラダテス1世)のようにフィルヘレネ(ギリシアを愛する)という称号を用いたりした王もいた他、芸術や一部の社会制度については顕著にヘレニズム的な要素を取り入れられた。ギリシア人やバビロニア人など都市住民が力を持った西部と、遊牧民的な大氏族の勢力が強い東部との社会的な相違は深刻な政治対立を引き起こしていた。紀元前1世紀の接触以来アルシャク朝の主要な敵となったローマは、アルシャク朝に親ローマ的な王を擁立すべく介入を続けたが、この親ローマ王の支持基盤は常にギリシア人を中心とした西部の都市住民であった。 1世紀初頭にローマの支援の下でヴォノネス1世が王座を得ると、それ以前の親ローマ王と同じくギリシア人(及びバビロニア人)の都市がこれを支持したが、パルティア人の貴族達はヴォノネス1世に反対してアルダヴァーン2世(アルタバヌス2世)を擁立した。西暦12年頃まで続いた内戦でヴォノネス1世は敗れた。この戦いの結果、アルシャク朝におけるギリシア人都市の政治的意義は急速に低下した。36年から43年にかけてバビロニア最大のギリシア人都市セレウキアで大規模な反乱が発生したが、これはイラン世界においてギリシア人が主要な政治勢力として起こした最後の出来事となった。ギリシア人の勢力減退にあわせるようにイラン世界におけるヘレニズムは大きな影響を残しつつも終焉へと向かった。そしてイラニズムとも呼ばれる伝統回帰の動きが強くなっていった。
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