フランスの準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 19:36 UTC 版)
「1809年オーストリア戦役」の記事における「フランスの準備」の解説
ナポレオンは1809年の冬のスペイン戦役から丁度パリに戻ってきた時で、南ドイツのフランスの方面司令官のベルティエに今後形成されうる戦線への部隊の展開と集結の計画を教授していた。彼の概案では次の戦役は1805年と同様にドナウ川が主戦場になり、北イタリアに侵攻してくるオーストリア軍はマルモンとボアルネの軍によって拘束されると予想していた。オーストリアの主軍はドナウ川の北から攻撃してくるとナポレオンは考えていたが、この判断は誤っていた。3月30日、ナポレオンはベルティエに手紙を書き、その中でレーゲンスブルク近辺に140,000名の兵を集結させる意図を説明した。レーゲンスブルクはオーストリアの攻撃を予定している場所から遠く北に位置していた。ナポレオンのベルティエへの命令はオーストリアの攻勢が4月15日より早く開始される事はないという仮説に基づいていた。これらのオーストリアの作戦に対する誤解によって、フランス軍は戦闘開始時に部隊を適切に展開できなかった。当時フランス軍の主力は半島戦争に参加していたものの、オーストリア方面のフランス軍と同盟軍は18万に達した。しかしこれら部隊の半数がオランダ、ドイツ、ポーランドの外国兵であった。
※この「フランスの準備」の解説は、「1809年オーストリア戦役」の解説の一部です。
「フランスの準備」を含む「1809年オーストリア戦役」の記事については、「1809年オーストリア戦役」の概要を参照ください。
フランスの準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 02:05 UTC 版)
モンカルムの到着前は、カリヨン砦で指揮を執っていたのは大佐のフランソワ=シャルル・ド・ブールラマクで、6月23日までには、イギリスが大軍を率いて攻撃することを知らされていた。ブールラマクは、6月10日に、ヴォードルイユからアバークロンビーへの手紙(対立する指揮官同士で交わされる儀礼的な挨拶の一環)を伝令に持たせており、その伝令が戻るのを待っていた。実は、その伝令は、イギリス軍の宿営のすぐそばで、恐らくはイギリス軍のスパイ活動をやっていたということで、拘束されていたのだった。ブールラマクは偵察活動を拡大した、また、捕虜のイギリスの斥候から、イギリス軍のおよその兵力を知らされてもいた。 6月30日、モンカルムはカリヨン砦に到着した。そこで見たのは、明らかに兵員不足の駐屯部隊だった。3,500人の兵しかおらず、食糧はわずか9日分しかなかった。ブールラマクはモンカルムに、イギリス軍は2万人かそれ以上が、ウィリアム・ヘンリー砦の跡地近くに集結していると伝えていた。モンカルムは、大勢のイギリス軍に、自らと、地理的な弱点があるカリヨンとが直面するにあたって、恐らく、砦に接近してくるであろう敵に対する防御の戦略を取った。モンカルムは即座に、ブールラマクと3つの大隊を派遣して、砦から6マイル(9.7キロ)のところにあるジョージ湖の北岸から、連水経路を横切り、2マイル(3.2キロ)に渡って流れている川の守りを固めさせた。そして自身は、2つの大隊を率いて、製材所のところの先発隊の野営地をやはり占領し、防御を固めた。それ以外の兵たちは、カリヨン砦に残って、砦の外のさらなる防御の準備をしていた。モンカルムはまた、この状況をモントリオールに伝え、もし可能であるのなら、レビとその兵を、補強要員としてよこしてほしいと頼んだ。このレビの軍は、ヴォードルイユが、西の守りとして任務に就かせる予定の軍だった。レビはまだ西へと発っておらず、ヴォードルイユは、彼と400人の部隊に、西ではなくカリヨンへ向かうよう命じた。彼らがモントリオールを発ったのは7月2日だった。 7月5日にブールラマクが返事を受け取った時、イギリス軍は次第に近づきつつあった。彼は大尉のトレペゼと350人の部隊に艦隊を監視させ、可能であれば上陸を阻止するように命じた。この時のイギリス艦隊の規模については、「ジョージ湖の湖面を覆ってしまうほどの大きさ」といわれていた。モンカルムはブールラマクに退却するように命じた。ブールラマクは、防御の布陣はこれで十分だと思っており、モンカルムから3度退却するように言われて、初めて兵を退けた。モンカルムは、行動範囲に関して熟知しておらず、すべての兵にカリヨン砦に戻るよう何度も繰り返し、連水陸路の2つの橋を破壊した。この退却により、トレペゼの軍が、本隊から孤立した状態になった。しかもトレペゼには分が悪いことに、インディアンの斥候がイギリスの艦隊の大きさを恐れて、彼を捨てて逃げたのである。 7月6日の夕暮れ時、フランス軍は砦の北西訳0.75マイル(1.2キロ)の高台に塹壕を掘りはじめた。この高台は砦への道が通じていた。7月7日、塹壕の下に、かなりの長さに渡って逆茂木(敵の侵入を防ぐために、とげのある枝を束ねて作った柵)が取り付けられた。その日の終わりに、塹壕の上に胸壁が取り付けられた。これらの急ごしらえの防御は、小銃の射撃には役立つが、イギリス軍が大砲で射撃をした場合には、何の効果もないであろうと思われた。
※この「フランスの準備」の解説は、「カリヨンの戦い」の解説の一部です。
「フランスの準備」を含む「カリヨンの戦い」の記事については、「カリヨンの戦い」の概要を参照ください。
- フランスの準備のページへのリンク