フィンランド内戦
フィンランド内戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/18 15:43 UTC 版)
「パーヴォ・タルヴェラ」の記事における「フィンランド内戦」の解説
1917年12月、「マックス・シュトルムステン」との名を使い偽造パスポートで独立間もないフィンランドに帰国したタルヴェラは、翌年1月、白衛軍[要リンク修正]に参加。フィンランド内戦勃発後の1月31日、スーポヒア郡(英語版)の指揮官としてクリスチーネスタッドを解放した。3月、サタクンタ県統一戦線の一環としてアハライネン(英語版)の戦いに参加。エルンスト・リンデルよりポリ第8連隊(フィンランド語版)の第2大隊長と大尉に任ぜられる。4月には少佐へと昇進し、エケナース(英語版)にて終戦を迎える。当時21歳のタルヴェラはフィンランド最年少の少佐であった。 1919年6月、ロシア内戦に乗じカレリア奪取を目的とした遠征隊を指揮。オロネツを奪取し、ペトロザヴォーツクへと進撃せんとするも、赤軍はラドガ湖畔に大部隊を集めており、遠征隊は壊滅的被害を出して撤退した。9月、アールネ・シフヴォ中佐率いる遠征隊の山岳猟兵部隊長として再度カレリア奪取に赴く。1920年、タルトゥ条約が締結されたが、レポラ(英語版)およびポロゼロ(英語版)の領有権の放棄というものであった。 帰国後、ヴィルホ・ネノネンの計らいで砲兵学校に入学、また1923年にイギリス・エセックスのショーブリネス(英語版)の沿岸砲兵学校に留学した。1924年には参謀本部アカデミーに入学。 一方、東カレリアではタルトゥ条約に不満を持ち部隊撤収を拒否した「森のゲリラ(英語版)」と呼ばれる元白衛軍兵士たちによるゲリラ戦が展開されていた。キーロフ線(英語版)の破壊やポルシェヴィキの暗殺など活動は多岐にわたっていたが、赤軍側の反撃で殆どの兵士たちが1922年までに帰国した。タルヴェラもこの動きには強い共感を持ち、参謀本部アカデミーでは「ラドガ・カレリア奪還への好機」と題した卒業論文をアーロ・パヤリとの共同で作成している。 1926年、参謀本部アカデミー卒業後、猟兵連隊(サヴォ)長に任命。1927年から参謀本部の課長。タルヴェラは、軍内に広い交友を有し、カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムは彼を養子にすることすら考えていた。政治的には、反露、民族主義者だった。
※この「フィンランド内戦」の解説は、「パーヴォ・タルヴェラ」の解説の一部です。
「フィンランド内戦」を含む「パーヴォ・タルヴェラ」の記事については、「パーヴォ・タルヴェラ」の概要を参照ください。
フィンランド内戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 02:45 UTC 版)
「カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム」の記事における「フィンランド内戦」の解説
「フィンランド内戦」も参照 1917年11月のフィンランドの選挙で保守系のペール・スヴィンヒューが首相になり、ボリシェヴィキの指導を受けた社会民主党による革命は阻止された。12月6日、フィンランド独立宣言が採択され、フィンランドはロシアから独立した。フィンランドの軍隊は1905年にニコライ2世により廃止されており、スヴィンヒューは12月に帰国したマンネルヘイムに軍隊の創設を委託した。 ロシアは十月革命によってボリシェヴィキによる新政府が成立し、第一次世界大戦から離脱するため中央同盟と休戦交渉を行っていた。対ドイツのためのロシア軍10万がフィンランドに駐留し、フィンランドの社会主義革命を目指す赤衛軍(英語版)の武装を支援していた。ロシアが独立宣言を承認したあとも4万以上の兵力がフィンランドに残っていた。スヴィンヒューを支持する白衛軍(英語版)は赤衛軍と対立し、武力衝突が発生していた。白衛軍は1918年1月13日に国軍として認められ、マンネルヘイムの提案で政府は首都機能を赤衛軍の勢力が強いヘルシンキから保守勢力の強い北部のヴァーサへ移すことを決めた。1月27日、ヘルシンキで赤衛軍によるクーデターが発生し、フィンランド内戦が始まった。 白衛軍は兵数の不足を補うため2月に徴兵制を施行し、兵士の動員が行われた。白衛軍はマンネルヘイムを始めとするロシアから帰国した将校、ドイツで訓練を受けたイェーガー、スウェーデンからの義勇兵を含めて約7万の兵力で構成された。赤衛軍は緒戦においてタンペレ、ヘルシンキ、ヴィープリなど重要都市を押さえ、工業力に富んでいた。駐留ロシア軍から訓練を受け、武装を供給された赤衛軍は3月上旬まで攻勢を行ったが、白衛軍は徐々に拠点防御で勝利するようになった。 ロシアは3月3日にブレスト=リトフスク条約に調印してドイツなどと停戦したが、条約に含まれていたフィンランドからの撤退はすぐには実行されなかった。フィンランド政府はドイツに援軍を求めたが、マンネルヘイムは大国の力に依存して戦うことの危険性を説き、反対した。マンネルヘイムは、ドイツ軍は赤衛軍とは戦わず他国の軍を対象とすることと、指揮権をマンネルヘイムに委ねる条件を政府に認めさせた。政府はマンネルヘイムを騎兵大将(Ratsuväenkenraali) へ昇進させ、序列を示した。ドイツ軍の到着前の3月上旬から白衛軍はタンペレを目標に反抗作戦を行い、4月3日に陥落させた。同日、リュディガー・フォン・デア・ゴルツ(英語版)の率いるドイツ軍約1万が海上からヘルシンキの西にあるハンコ岬とヘルシンキの東、ロヴィーサに無血上陸した。白衛軍が東国境のヴィープリを攻略し、別働隊で西部のポリを解放する間にドイツ軍はヘルシンキをほぼ無抵抗で落とした。内戦は終結し、5月16日に白衛軍はヘルシンキで勝利パレードを行った。 内戦で勝利を収めると、フィンランド政府は親ドイツの勢力が強まった。マンネルヘイムは連合国側の優勢を認識しており、スカンディナヴィア諸国と協調した武装中立を訴えたが、ドイツ軍参謀将校によるフィンランドの軍政への介入をフィンランド政府が承認したため1918年6月にスウェーデンへ亡命した。
※この「フィンランド内戦」の解説は、「カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム」の解説の一部です。
「フィンランド内戦」を含む「カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム」の記事については、「カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- フィンランド内戦のページへのリンク