ビルマおよび中国の戦い
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「アルバート・ウェデマイヤー」の記事における「ビルマおよび中国の戦い」の解説
1943年、ウェデマイヤーは東南アジア戦線(英語版)に赴き、東南アジア連合軍(英語版)総司令官であるイギリス海軍中将ルイス・マウントバッテン伯爵のもとで参謀の一人に選任される。 1944年10月27日、ウェデマイヤーは陸軍参謀総長となっていたマーシャルから、「ジョセフ・スティルウェルに代わって中国戦線のアメリカ軍の指揮を執れ」との電報を受け取った。スティルウェルの後任という新しい任務では、蔣介石大元帥の参謀長も兼ねることとなった。マーシャルからの電報では他に、国民政府要人としてのウェデマイヤーが特別に行ってもよい任務と禁止事項が記されていた。ウェデマイヤーは、中国戦線での任務は、軍事と外交両面におけるアメリカ要人の「墓場」であると考えていたふしがあり、初期のころは任務について不安があった。実際、ウェデマイヤーがスティルウェルとの事務引継ぎのためにスティルウェルの司令部の入ったところ、スティルウェルがウェデマイヤーと面会することなく司令部を去ったことを知って落胆した。通常、司令官交代の際には後任司令官に対して、状況説明や作戦計画、配下の長所および短所などを徹底的に教え込むことが習慣的になっていたが、この時ばかりは、その習慣が一切なかった。ウェデマイヤーは司令部を徹底的に調査したものの、スティルウェルの下で作成されたであろう作戦計画など一切の記録を見つけることはなかった。そこでウェデマイヤーは、スティルウェルの情報将校に話を聞くことにしたが、将校の言から少しばかりのことが分かった。スティルウェルは、計画書でも何でもかんでも「お尻のポケット」にしまいこんでいた、ということだった。 ウェデマイヤーは中国・ビルマ・インド戦線(英語版)にたずさわっている間、国民革命軍が日本軍へ積極的な圧力をかける気を奮い起こさせるために、さまざまなことを試した。ヒマラヤ山脈越えの輸送作戦である「ハンプ越え(英語版)」の規模拡大に尽力し、また「ハンプ越え」に使用する輸送機も新型に差し替えた。スティルウェル以来続けられていた国民革命軍の近代化も継続された。しかし、ウェデマイヤーのこうした努力も、スティルウェル時代からの国民革命軍内の摩擦、すなわち中国共産党に組する分子からの断続的な妨害があって、完全に成功と言えるレベルには達し得なかった。ウェデマイヤーの奔走は中国国内のアメリカ陸軍航空軍、すなわちクレア・リー・シェンノート中将率いる第14空軍および、中国大陸から日本、満州国および日本軍要地へのB-29の爆撃作戦であるマッターホーン作戦(英語版)の主軸である第20空軍に対しても行われた。 戦争終結後の1945年12月7日、ウェデマイヤーは連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥および太平洋艦隊司令長官兼太平洋戦域司令官レイモンド・スプルーアンス海軍大将と会談を行い、満州と華北に6つ以上の国民党軍を展開させるよう、統合参謀本部に提言を行った。三者はまた、「中国に対するアメリカの支援として、統一と民主化の浸透を図るため、アメリカの駐華大使をその窓口として活用すべき」という意味のことを示唆した。これら、日本軍が退散したあとの国共合作に関する問題は、1949年から1951年にかけてアメリカで討議されていた「失われた中国(Who lost China)」問題の中心テーマとなった。これに先立つ1945年7月10日、ウェデマイヤーはマーシャルに、以下のような手紙を送って警告とした。 アメリカ、ソ連およびイギリスがあくまで国民党と共産党の統一を強要する場合、中国にとっての現実的な譲歩を強制した結果、後々に深刻な問題を形成する可能性があります。一時的な統一で効果的に日本軍を追い出したあと、この統一は解消せねばなりません。それが私の信念です。連中は表の外交的には物腰低く接しますが、裏では不一致です。統一に手を貸せば、三大国の噛みつきあいになります。 — アルバート・ウェデマイヤー、 ウェデマイヤーは司令官の立場から、上述の手紙を長期的観測に基づく警告として送ったわけであるが、結局は警告は生かされなかった。実際に「無敗」の日本軍が撤退してのち国共合作は1946年に瓦解した。ウェデマイヤーは後々までも、「統一には反対していたのだ」と他人に話していた。ウェデマイヤーは1946年に中国から去った。
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