バンド結成までの経緯
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「ソフト・マシーン」の記事における「バンド結成までの経緯」の解説
オーストラリア出身のヒッピー、デヴィッド・アレンは、放浪先のパリでビート文学の巨匠、ウィリアム・バロウズと出会う。バロウズとラジオの仕事などを行っていた時、ブリストル生まれのロバート・ワイアットと出会う。アレンはロンドン滞在時にワイアットの母の営む下宿に住んだりもしており、学生時代からの知り合いでオックスフォード大学在学中だったカンタベリー生まれのマイク・ラトリッジも加わり、一つのサークルが形成されていく。この頃にアレンとワイアットに加え、ワイアットやラトリッジと学生時代から交流のあったブライアン・ホッパーの弟、ヒュー・ホッパーとトリオを組んでライブを行ったこともあった。 トリオが短期で終了した後、アレンはヨーロッパ各地を巡り歩き、その中でケヴィン・エアーズや後に伴侶ともなるジリ・スマイスとの交流を深めていく。そのエアーズは1964年にホッパー兄弟、ワイアットと共に「ワイルド・フラワーズ」というバンドを結成し、カンタベリーを本拠に活動した。 そして1966年の夏、カンタベリーに戻ったアレン(ベース、ボーカル)は、ワイルド・フラワーズを脱退したエアーズ(リズム・ギター、ボーカル)とワイアット(ドラム、ボーカル)、ラリー・ナウリン(ギター)の4人でミスター・ヘッドというバンドを結成。そしてラトリッジが合流した後にバンド名を変更することになり、ラトリッジがパリのバロウズに電話をかけ直接使用許可を得てつけたその名は、「ソフト・マシーン」。バロウズの著書に同名のタイトルがあり、ソフト・マシーン(柔らかな機械)とは女性型アンドロイドのことを指していると思われる。ラトリッジはこれにインスパイアされたらしい。なお、ナウリンは最初期に行われた数回のギグで脱退した。
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バンド結成までの経緯
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「ASIAN2」の記事における「バンド結成までの経緯」の解説
TATSUは幼い頃からの友人であったドラムスのHIDEOと中学2年の時にバンドを組んだ。高校では「バンドどころじゃなくて遊ぶのに一生懸命」だったが、「10代後半の頃に将来につながるものとして真剣にやろう」と音楽に取り組むようになる。ただ、日本語のロックはみなカッコ悪く聞こえ、コピーするのは洋楽ばかりだった。TWENTY"20"は音楽よりむしろ中学の時から芝居に興味があり、そして高校の時にアメリカへ旅行した体験が決定機となって、高校卒業後に渡米することを決めた。TWENTY"20"は渡米後、ロサンゼルスで俳優の勉強をしていたが、「日本人であること」から来る差別を受ける。ただ、差別されることにショックだったというよりも、客観的に見て自分自身が日本人であることに気づかされたのであった。こういった経験を経て、俳優の勉強をすること自体は別に良かったのだが、アメリカの映画に出ることに何か悔しさを覚えるようになり、むしろ日本で日本人の俳優を使って映画を作り、それが世界で評価されることの方が魅力的に思えてくるようになった。そして、日本でイチから映画の勉強をしようと帰国し、お金をためるためにバイトしてる時期に出会ったのがTATSUたちであった。誘われて一緒に遊んだり、音楽をやっているうちに、始めは2、3回で終わると思っていたものが、彼らが自分と同じように「真剣に最後まで夢を追える人間だ」と解ってシンパシーを抱くようになる。そして、意気投合をした彼らが中心となり、90年代後半から本格的な活動を開始した。
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