ハトホル‐しんでん【ハトホル神殿】
ハトホル神殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/13 14:28 UTC 版)
「メンフィス (エジプト)」の記事における「ハトホル神殿」の解説
この小さなハトホルの神殿は1970年代にアブドゥッラーフ・アル=サイード・マフムード(Abdullah al-Sayed Mahmud)によってフウト・カ・プタハの巨大な壁の南で掘り出された。この神殿はラムセス2世時代のものである。シカモア(Sycamore)の婦人ハトホル女神に捧げられ、主にカルナックで見られる小さな神殿建築と同様の構造を見せている。その大きさからハトホルの主要な神殿ではないように思われるが、この都市の遺跡に存在する唯一のハトホル神殿である。 この社は主要な祭りの間の宗教的な行進のために使われたと信じられている。エジプトにおいてハトホルに捧げられたより大きく最も重要な神殿がこの都市のどこかに存在していたと考えられているが、今日まで発見されていない。プタハ神殿の近くにあるのと同様の窪地が見つかればその位置を指し示すことができる。考古学者達は古代の資料によって語られている外郭と巨大なモニュメントを確認することができると考えている。
※この「ハトホル神殿」の解説は、「メンフィス (エジプト)」の解説の一部です。
「ハトホル神殿」を含む「メンフィス (エジプト)」の記事については、「メンフィス (エジプト)」の概要を参照ください。
ハトホル神殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/25 02:20 UTC 版)
ティムナ渓谷領域の主要な発掘者であるBeno Rothenbergは、ソロモン王の柱のつけ根でエジプトの採掘の女神であるハトホルに捧げられた小さなエジプト様式の神殿跡を発見した。 これは紀元前14世紀末のファラオ・セティ1世の治世に建設されたもので、エジプト鉱員たちの為に建設されたものであった。 神殿は開かれた中庭にある小部屋からなり、この場所はおそらくは女神像を安置する為に岩を切り抜いたものであった。 地震による被害を受けたため、紀元前13世紀のラムセス2世の治世中、より大きな中庭と精巧な壁・床で再建されている。 元々の神殿の大きさはおおよそ15メートル四方で、表面は白い砂岩であった。この砂岩は数キロ離れた採掘場所でのみ発見されている。 神殿からはヒエログリフ、彫刻、装飾品など、それぞれ合わせるとおおよそ1000に上る人工物が発見され、重要な情報を考古学者たちにもたらすこととなった。 神殿へと続く岩の階段上部の連なりには、ハトホルとラムセス3世を描いた彫刻が掘られている。 紀元前12世紀にエジプト人がこの地を去ったのち、ミディアン人がこの神殿を利用することとなった。 ミディアン人はエジプト人たちによる信仰の跡を取り去った。ハトホルの象徴やヒエログリフを消し、石碑の列と供物の祭壇を入り口の両側に設置した。 エジプト様式の神殿はテントに覆われた砂漠の神殿へと姿を変え、ミディアンの陶器と金属製の装飾品で満たされた。聖所の近くでは青銅製の蛇も発見されている。
※この「ハトホル神殿」の解説は、「ティムナ渓谷」の解説の一部です。
「ハトホル神殿」を含む「ティムナ渓谷」の記事については、「ティムナ渓谷」の概要を参照ください。
ハトホル神殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/19 19:50 UTC 版)
複合体で際立つ建造物が主神殿、すなわちハトホル神殿である(歴史的にテンティラの神殿、Temple of Tentyra 〈デンデラ神殿〉と呼ばれる)。神殿は、はるか中王国時代(紀元前2055-1650年頃)より始まり、同じ場所で改修されて、まさにローマ皇帝トラヤヌス(紀元後98-117年)の時代まで存続した。現存する構造は遅くともプトレマイオス朝時代(紀元前332-32年)の後期までには建造された。ハトホルに捧げられた神殿は、全エジプトで最も保存状態の良い神殿の1つである。その後の追加はローマ(支配)時代(紀元前30-紀元後395年)に加えられた。 神殿の壁に見られるクレオパトラ7世(紀元前51-30年)の描写は、プトレマイオス朝のエジプト芸術の好例である。人物はクレオパトラと彼女の息子カエサリオン(紀元前44-30年)を表す。神殿外側の後部に、そのクレオパトラ7世フィロパトルと、彼女の息子で、父親がガイウス・ユリウス・カエサルであるプトレマイオス15世(カエサリオン)の彫刻がある。
※この「ハトホル神殿」の解説は、「デンデラ神殿複合体」の解説の一部です。
「ハトホル神殿」を含む「デンデラ神殿複合体」の記事については、「デンデラ神殿複合体」の概要を参照ください。
- ハトホル神殿のページへのリンク