ドーリア式の発達
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小アジアにおける建築活動とは別に、ペロポネソス半島からイタリア半島南部ではドーリア式の神殿が発達した。古代ギリシアのドーリア式は、スタイロバティスの上に直接円柱が載せられるため基盤を持たず、柱頭は円形の皿型エキヌスと、方形の台アバクスで構成されていることが特徴である。しかし、シチリア島およびイタリア半島のドーリア式と、ギリシア本土のドーリア式では、相互に強い結びつきが見られるものの、その形態に顕著な違いが認められる。 ペロポネソス半島のポリスと強い結びつきを持っていたイタリア南部ではドーリア式が採用されていたが、これらの地域ではギリシア本土の伝統には拘束されず、かなり独自の建築活動を行っていた。建築家クレオメネス[要曖昧さ回避]とエピクレスによる、シュラクサイのオルティギア島にあるアポローン神殿は紀元前570年頃に建設されたもので、構造が石造にかわった最初のギリシア神殿のひとつである。技術的には、異様に高い梁(エンタブラチュア)を柱を密に並べて支えるなどの未成熟な部分があるが、この神殿のドーリア式にふさわしいどっしりとした重さは、紀元前6世紀中期以降に建設されるシチリア島やイタリア半島南部の神殿建築に特有のものとなった。 セリヌスの最も巨大な建築物であるG神殿は、幅49.5m、奥行108.9mの巨大神殿で、紀元前520年に起工された。僭主ピタゴラスによって、エフェソスやサモス島の巨大神殿と張り合うよう意図されたらしい。周柱式であるため翼廊の幅は12mと広く、内陣は幅18m。列柱によって3等分された3廊式である。露天になった内陣には小神殿が設けられており、この点はディディマのアポローン神殿(イオニア式)に影響を受けたものではないかと考えられている。石造技術は完成され、意匠はギリシア本土のような各部の構成に縛られない自由さも兼ね備えている。 「バシリカ」と呼ばれるパエストゥムの第1ヘーラー神殿は、紀元前565年ないしは紀元前530年頃に建設されたものと推定されている。建築の装飾に対する意識からであろうが、エンタシスはたいへん強調され、柱頭のエキヌスはかなり扁平で、その下部には葉飾りが挿入されている。周柱式神殿であるが、正面の円柱は偶数ではなく奇数(9本)配置されており、建物の軸に一列の列柱が通る格好になっている。このため内陣は2廊である。内陣の壁と前室の柱は外周の柱割に一致しているが、内陣の列柱の間隔はこれとは異なり、一般的なギリシア神殿とは明らかにその性格が異なっている。 ギリシア本土におけるドーリア式建築は、紀元前7世紀頃、未だ建築が石ではなく木造であった時期に完成した。ドーリア式は古いドーリア人入植地に由来し、これらの地域では相互に強い結びつきが見られるが、これについては南イタリアに複数の植民都市を建設し、ペロポネソス半島で最も活発な交易活動を行っていたコリントスが重要な働きを担ったと考えられている。アゴラに隣接して紀元前6世紀中期に建設されたアポローン第II神殿は、現在も何本かの柱が残っているが、正面と側面の柱のスパンは異なっており、また、隅部の柱間は他よりも少し狭くなっている。また、内陣が2室あるなどの特徴は、デルポイのアポローン神殿やアテナイの古パルテノン神殿に共通しており、この神殿が両者に影響を与えたことが窺われる。 イタリア半島への中継地で、コリントスと密接なつながりのあったケルキラのアルテミス神殿も、紀元前585年頃か紀元前580年頃に建設された、石造ではギリシア最古のドーリア式神殿のひとつである。神殿の保存状態は極めて悪いが、大きさは幅22.4m、奥行き47.9mで、疑似二重周柱式平面を持ち、内陣は列柱によって3廊に分離されていた。この神殿を特に有名にしているのは、ペディメントに据えられていたゴルゴーンの巨像で、このため「ゴルゴーン神殿」とも呼ばれている。ペディメントを彫刻で飾った、知られている限り最古の神殿である。
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