タイ人系王朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 12:57 UTC 版)
13世紀は、「タイ族の沸騰の時代」であった。チャオプラヤー川流域に進出したタイ人によって、初の民族国家スコータイ朝が打ち立てられたほか、タイ人固有の文字やタイ仏教文化の基礎が形作られた。スコータイ朝の立国当初は上座部・大乗仏教・ヒンドゥー教が併存していたが、3代王ラームカムヘーンが上座部僧に帰依することによって、同派の国内での優占を決定づけ、上座部仏教がタイに浸透することなった。スコータイの仏教美術は、クメールやハリプンチャイ、パガン、そしてスリランカから影響を受けて発達した。 この時代に生まれた仏像の型として、釈迦遊行像があげられる。左ひじを上げ、掌を見せる施無畏印を示し、左足に重心を乗せ、右足を前に踏み出そうとする姿をとる。この様式は、亡くなった摩耶夫人へ説法するため、釈迦が梵天・帝釈天とともに忉利天からサンカーシャ(巴:サンカッサとも)へと降りてくる仏伝を表したとされる。建築においては、ワット・マハータートがあげられる。中心にストゥーパ、その前に仏堂を置き、スリランカの影響が伺える。 同時期のタイ北部では、スコータイ王朝やアユタヤ王朝に加え、ラーンナー王国が興った。ラーンナー美術は、初期にはハリプンチャイ美術の、後にはパーラ朝美術の流れを汲むパガン美術の影響を受けていた。この王国は19世紀末まで存続し、チェンセーンのワット・チェディ・ルアントット・パサック、チェンライのワット・プラケーオ(英語版)、チェンマイにワット・チェディ・ルアンといった優れた仏教遺跡を遺したほか、チェンセン様式と呼ばれる美術を確立させた。 14世紀半ばに興ったアユタヤ朝は、15世紀半ばにはアンコール朝とスコータイ朝を退ける。スコータイ同様、上座部を最重要視したが、アンコール朝下でのバラモン司祭を重用した。仏像においては、スコータイ様式とクメール様式を踏襲した。17世紀初頭から18世紀中頃は既存の仏像の修復が主となり、この時期に制作された仏像は稀である。また、このような事情から、アユタヤ様式の造形美術は途絶してしまう。 1782年、バンコクが新たな首都として拓かれた。2021年時点での王朝でもあるラタナコーシン朝である。18世紀末に即位した初代国王ラーマ1世はアユタヤーの都の再興を目指し、ワット・プラケーオや涅槃仏ワットポー等、造寺造仏に励んだ。後を継いだラーマ2世は、詩人・彫刻家でもあり、仏教美術の御作が現代にも伝わっている。 観音菩薩(パドマパーニ)像 9世紀 シュリーヴィジャヤ王国(中部ジャワ)美術 銅像銀象嵌 高63.0cm タイ族南下以前に創建された大乗仏教の寺院、ワット・プラボーロマタートチャイヤー伝来。タイ、チャイヤ出土 釈迦遊行像 14世紀 ワット・サシー ウォーキング・ブッダ(英:Walking Buddha - Leela attitude)とも。典拠となった『摩訶摩耶経』は、宋代の中国や平安時代の日本でも仏教美術の題材となった。 プラプッタチンナラート(「勝利の王」) 15世紀前半 スコータイ仏 ピッサロヌーク、ワット・プラシーラッタナーマハータート蔵 マハータンマラーチャー4世の時代に鋳造。 ワット・ポーの涅槃仏 プラーン・サム・ヨート ワット・プラケーオ外観
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