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アユタヤ-ちょう ―てう 【―朝】
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アユタヤ王朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/07/29 22:54 UTC 版)
(アユタヤ朝 から転送)
| タイの歴史 |
|---|
| 先史時代 |
| 古代~中世 (BC3-1238) |
| スコータイ王朝 (1238-1448) |
| アユタヤ王朝 (1351-1767) |
| トンブリー王朝 (1768-1782) |
| ラッタナコーシン王朝 (1782-1932) |
| タイ王国 (1932–1973) |
| タイ王国 (1973-) |
| 地方の歴史 |
| ハリプンチャイ王国 |
| ラーンナー王朝 |
アユタヤ王朝(1351年 - 1767年)は現タイの中部を中心に展開したタイ族による王朝。創設者はラーマーティボーディー1世(ウートーン王)。
タイに起こった各時代の王朝同様、中国とインド、ヨーロッパ方面を結ぶ中間に位置する地の利を生かし、貿易が国の富として重要であった。アユタヤ王朝でも王家を中心として、独占的な貿易が行われた。主に中国への米の輸出で国力を付けたほか、日本、琉球などの東アジア国家、東南アジア島嶼部、アラブ・ペルシア方面や西洋と活発に貿易を行い、莫大な富を蓄えた。この富を背景にアユタヤでは当時繁栄していたクメール文化を吸収しつつ、中国、ヨーロッパ、ペルシャなどの文化の影響を受けた独自の華やかな文化が開花した。
目次 |
歴史
ウートーン王の出身については、歴史資料上はっきりしていない。そのためいくつかの説が提出されてきた。なかには、疫病(おそらくはコレラ)で見捨てたチエンセーンから移住してきたといった説や、スパンブリー出身、ロッブリー出身説などがある。いずれにしろ、アユタヤ朝創設当時の、近隣の状況は、北にスコータイ王朝が隣接していたにもかかわらず、アユタヤを創設したタイ中部は、スコータイ朝の領土でなかったこと、さらに、アユタヤ時代が始まる直前までの古い遺跡がタイ中部で見つかっていることから、歴史資料としてまだ見つかっていない王朝がすでに存在していたことが窺える。あるいは、小国が並立していたというようなことも考えられる。例えば、この空白期(アユタヤ朝創設以前のタイ中部)にロッブリーやペッチャブリーはスコータイ朝とは別に中国に朝貢している。したがって、ウートーン王の出身もおそらくタイ中部のある国の王家からだと考えるのが妥当であろうと考えられている。ちなみに、ウートーンというのは金のゆりかごを意味し、伝承の中でタイ中部でこの名を持つ王は多い。つまり、タイ中部の名づけの習慣でもある。
ウートーン王は、王朝年代記ではラーマーティボーディーという名で記述されている。王が即位するにあたり、スパンナプーム王家(スパンブリー)の協力が不可欠であったことは、後の対スコータイ政策で顕著となる。
ラーマーティボーディー(1世)は国内統一のため、セイロンから仏僧を招いて上座部仏教(小乗仏教)を国家の公式な宗教とするとともに、ヒンドゥーの法典であるダルマシャスートラやタイでの慣習を元に(三印法典)を整備した。この三印法典は近代的な法典が整備される19世紀までタイの基本法典として機能することになる。
14世紀末までにはアユタヤ王朝は東南アジア最大の勢力として見なされるようになるが、完全に東南アジア地域を圧倒するほどの人口に欠けていた。このため、当時衰退しつつあったクメール王朝へ勢力を伸ばしつつあったベトナム勢力に対抗するため、ラーマーティボーディーは晩年アンコール(クメール人の都市)を攻撃しアユタヤの版図に加えた(1362年)。しかし、アユタヤはアンコールの完全な掌握を遂行することはできなかった。スコータイ王国との関係は、スコータイがアユタヤに朝貢する形となったが、その後、100年かかって、アユタヤ朝がスコータイ朝を併合し、スコータイ朝は消滅する。しかしこの過程で、アユタヤに新たに興ったスパンナプーム王家とスコータイの王家との姻戚関係が強くなり、その後もスコータイ王家は存続したと考えられる。
15世紀にはマレー半島のマラッカ王国がアユタヤの悩みの種となる。マレー半島ではマラッカやタンブラリンガ以南のマレー半島諸都市が15世紀早くからイスラム教に改宗するようになり、独立を宣言するようになったためである。結果的にアユタヤはマレー半島南部を失うが、マレー半島北部を維持し高級品を求めてやってきた中国出身の商人により国内の経済は潤うことになる。
一方、西のビルマは地域の覇権を競い、16世紀ごろから執拗にアユタヤへの攻撃を繰り返しており、アユタヤはこれに頭を悩まされることになる。ビルマタウングー王朝の君主、バインナウンは1569年にアユタヤ王、マヒントラーティラートを下しているがナレースワンによってアユタヤは再興された。この後、ビルマが内乱に見舞われたことから一時ビルマの侵攻は収まったように思われたが、コンバウン王朝が興ってから再びアユタヤはビルマの侵略に悩まされる。1767年にはシンビューシンによってアユタヤ王朝が滅亡する。このときアユタヤの町は徹底的に破壊されていたため、ビルマ軍が退却した後、新たに王となったタークシンはアユタヤ再興をあきらめトンブリーへと遷都する。
思想
スコータイ王朝前期においては、人民と親しく、適切に保護する性格(=ポークンであること)が国王に必要な要素とされたが、アユタヤ王朝に置いてはスコータイ王朝後期に発生したダルマラージャ(仏教の保護者としての王)の思想を引き継ぎ、仏教的を持って国を治める政治をアユタヤ王朝創設者ラーマーティボーディーは実践した。その一方で、ヒンドゥー教(バラモン教)的な色彩の濃い「王は神の権化である(=デーヴァラージャ)」と言う思想がクメール王朝の影響を受けて生まれた。これはクメール王朝からの人材を多用したサームプラヤー王以降顕著である。この思想はタイ文化をヒンドゥー色に変えた。言語にはサンスクリット語からの借用語が増え、文学、演劇などではヒンドゥー的色彩の強いものが発生した。宮廷内の作法やしきたりなどにもこの傾向が顕著に見られ、国王に対する敬語としてのラーチャサップ(王語)を作り出し、オーンカーンチェーンナムの儀式に見られるような難解な作法を生んだ。「王は神である」ため一般人から隔離され、王に触れたり顔を見たりする一般人を死刑に処するなど法律にまで影響を与えた。また、仏教を保護する王としての性格は「王は転輪聖王である」という形で受け継がれた。
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