ラーンナー
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ラーンナーは、ラーンナー王朝(北タイ語: , タイ語: อาณาจักรล้านนา, ラテン文字転写: Xanacakr Lan Na、現在のタイ)、もしくはその支配領域であったラーンナー地域を指す。また、これらの地域で育まれた文化をラーンナー文化という。またチエンマイ王朝ともいう。元の冊封を受けた際は八百媳婦国と呼ばれた。
- ^ Wyatt, p. 80[要文献特定詳細情報]
- ^ Rātchasomphān & Wyatt 1994, p. 85
ラーンナー王国
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詳細は「グンヤーン(英語版)」および「ラーンナー」を参照 メコン支流のコック川流域のタイ北部には、タイ・ユアン族(英語版) (Tai Yuan) を中心に、タイ族のムアンの連合としてヨーノック (Yonok) とも呼ばれる国家的形態の1つが認められ、グンヤーン(英語版)(チエンセーン)辺りを中心としたその成立は11世紀から12世紀頃であったと考えられる。 グンヤーンにおいて、タイ・ルー族 (Tai Lue) の君主マンラーイが1259年に即位すると、支配域を広げるとともに南に侵出し、1262年に首都をグンヤーンからチエンラーイに、1269年にはファーンに移した。1281年には、7年間進入を企てていたモン族のハリプンチャイ王国(ラムプーン)を攻撃し、壊滅させた。1296年、マンラーイは新しく建設したチエンマイに遷都し、ラーンナー王国(チエンマイ王国)を建国した。 1338年、ラーンナーの第4代王カムフー(在位1334-1336年〈1338-1345年〉)は、タイ族のパヤオ王国を併合した。その後、第9代王ティローカラート(在位1441〈1442〉-1487年〉)の時代には、1443年にプレーに侵攻してプレー王国を併合し、さらに1448年頃にはナーンのカーオ王国を併合するなど著しく勢力が拡大した。また、アユタヤ・ラーンナー戦争(英語版)では、1450年から1462年にティローカラートは数度にわたり南進し、アユタヤ王朝と衝突した。 ラーンナーの繁栄は、第11代王ケーオ(在位1495-1525年)まで続いたが、治世末期の1523年、チェントゥンに出兵し敗北したことで、多くの権力者や兵士らを失った。さらに1524年には水害もあり、人材と人口の減少が国内を大きく疲弊させたことが一因となり、ラーンナーは衰退の一途をたどった。王位の混乱のうちに、1546年にはラーンサーン王朝からセーターティラートを招いてラーンナーの国王に据えたが、2年後、セーターティラートが王位を継ぐためラーンサーンに戻ると、さらに混乱は増した。1551年、ムアンナーイよりメクティ(ドイツ語版)(メーク、在位1551-1564年)が招かれ王位に就いたが、1558年、ビルマの侵攻によりラーンナーはタウングー王朝の属国となった。
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