シュルレアリスムの先駆
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「ギヨーム・アポリネール」の記事における「シュルレアリスムの先駆」の解説
1917年に入ってようやく文学活動を再開し、アンドレ・ブルトンやフィリップ・スーポー、ピエール・ルヴェルディら後のシュルレアリストとの交流が始まった。同年3月にはルヴェルディ、マックス・ジャコブとともに前衛芸術・文学雑誌『南北』を創刊。パリの2つの前衛芸術家・文学者の活動拠点モンマルトル(パリ北部)とモンパルナス(パリ南部)をつなぐ地下鉄が開通したことに因んで命名され、この2つの拠点をつなぐことを意図したものであった。 1917年から翌年にかけて、アポリネールは≪メルキュール・ド・フランス≫誌の消息欄に、ユリアヌスやプリニウスが書いている荒唐無稽な話を取り上げて、王にさせられた犬の名前を引用した。それによれば、紀元230年頃に、とある君主が復讐のためにスエニングという名前の犬をノルウェー王に推挙したということである。 1917年5月18日、シャトレ座でジャン・コクトーの台本、エリック・サティの音楽、ピカソの舞台芸術、レオニード・マシーンの振付による前衛バレエ『パラード』の初演が行われた。このプログラムを書いたアポリネールは、ここで初めて「シュルレアリスム」という言葉を用いた。ただし、厳密にはハイフンの入った形容詞 sur-réaliste として使用し、翌1918年刊行・上演の自作『ティレジアスの乳房』の序文で surréalisme と表記した。『ティレジアスの乳房』は文字通り、シュルレアリスム演劇の先駆となった。 1918年4月にメルキュール・ド・フランス出版社から『カリグラム』(副題:平和と戦争の詩篇 1913-1916)刊行。5月2日にサン=トマ=ダカン教会でジャクリーヌと結婚。立会人はピカソと美術商アンブロワーズ・ヴォラールであった。ジャン・コクトーは祝いにエジプトの小彫像を贈り、アポリネールはこれに対して感謝の詩を贈っている。だが、同年11月9日、わずか半年の結婚生活の後、スペイン風邪により38歳で死去。軍人障害年金及び戦争の犠牲者に関する法典 (Code des pensions militaires d'invalidité et des victimes de guerre) により、戸籍に「フランスのために死す」と記された。 1967年に死去したジャクリーヌとともに、ペール・ラシェーズ墓地に眠る。
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