シュルレアリスムとの決別
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/01 14:40 UTC 版)
「ルネ・シャール」の記事における「シュルレアリスムとの決別」の解説
シャールも(アラゴンとは異なる理由で)この頃から次第にシュルレアリスムの運動から距離を置くようになり、1933年6月創刊のシュルレアリスムの雑誌『ミノトール(フランス語版)』には参加していない(但し、当初は主に前衛芸術雑誌としてピカソ、ジャコメッティ、マルセル・デュシャン、ハンス・ベルメール、ポール・デルヴォーらの作品が掲載され、ブルトン、エリュアールらが編纂にあたるようになったのは1937年からである)。さらに、1935年12月8日付の小冊子『バンジャマン・ペレへの手紙』でシュルレアリスムを批判。通常、これをもってシャールはシュルレアリスムに決別したとされる。シャールはもともと自動記述や睡眠実験には参加していなかったが、『バンジャマン・ペレへの手紙』では、「私は13か月前から自由を取り戻した」として、すでに1年以上前からシュルレアリスムの動きに疑問を抱いていたことを明らかにしている。特に1935年10月にブルトンとジョルジュ・バタイユによって結成された革命知識人闘争同盟「コントル・アタック(反撃)」はスペイン内戦や第二次大戦の危機を前にして、労働者に、資本家やナショナリストらに対する、戦争ではなく革命による「反撃」を準備するよう呼びかける運動であり、結局は短期間で決裂したが、シャールはこの運動は、ファシズムへの真の反撃ではないとしている。さらに、「詩は堕落し」、シュルレアリスムは「成長を止めた」と、運動の停滞を指摘する。 一方、この半年前にはフランスの知識人が反ファシズムと文化擁護を訴え、24か国230人の文学者を集めた第1回文化擁護国際作家会議(フランス語版)が開催され、アラゴンがソ連代表のイリヤ・エレンブルグの協力を得て事務局を務めたが、エレンブルグと対立したブルトンが同会議から追放された。この会議に大きな期待を抱いていたクルヴェルが、結核の再発を知ったことと相俟って絶望を深め、会議の直前に自殺した。彼の死に深く心を痛めたシャールは数年後に、以来、クルヴェルの作品を読むことができなくなったとし、「彼はそのあまりにも美しい性格を最も多く、しかも真っ先に他人に与えた男だ。彼は共有するのでなく、自ら与えるばかりであった」と述懐している。
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