シュルレアリスム - エルンストとの出会い
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「レオノーラ・キャリントン」の記事における「シュルレアリスム - エルンストとの出会い」の解説
それでもどうにか両親を説得したキャリントンは、1936年にチェルシー美術学校(現チェルシー・カレッジ・オブ・アーツ)、次いで同年にフランス・ピュリスムの画家アメデエ・オザンファンがロンドンに設立したオザンファン学院に学んだ。同じ年にロンドンのニューバーリントン・ギャラリーで開催された国際シュルレアリスム展(英語版)で、マックス・エルンスト、サルバドール・ダリ、ジョルジョ・デ・キリコ、ルネ・マグリットらの作品に出会い、さらにこの展覧会の英国側の主催者の一人ハーバート・リードが編纂した『シュルレアリスム』に掲載されたエルンストの作品《ナイチンゲールに脅かされる二人の子供》に深い共鳴を覚え、衝撃を受けた。同年、オザンファン学院の同窓生で、ハンガリー出身の建築家エルノ・ゴールドフィンガー(英語版)の妻ウルスラが自宅で開いたディナーパーティーに招かれ、ここで展覧会のためにロンドンを訪れていたエルンストに出会った。キャリントンは19歳、エルンストは46歳で、脚本家ジャン・オーランシュ(フランス語版)の妹で2度目の妻マリー=ベルト・オーランシュ(フランス語版)とは前年から別居していた(オーランシュは1940年に画家シャイム・スーティンと出会い、エルンストとは1942年に離婚。エルンストは同年、ペギー・グッゲンハイム(英語版)と再婚)(後述)。 翌1937年、キャリントンは両親の反対を押し切って渡仏し、パリ6区ジャコブ通り(フランス語版)のエルンストのアパート兼アトリエに身を寄せ、前年にロンドンで描き始めた《自画像(あけぼの馬の宿)》を完成させた。エルンストとは互いに刺激し合いながら作品世界を深め、翌38年にはキャリントンの最初の短編小説『恐怖の館』がエルンストの挿絵入りで発表された。著者紹介のための序文を寄せたのもエルンストで、彼はここでキャリントンを「風の花嫁」と呼んでいる。エルンストはキャリントンを友人のポール・エリュアール、アンドレ・ブルトン、バンジャマン・ペレ、ジャン・アルプ、マン・レイ、サルバドール・ダリ、マルセル・デュシャン、ジョアン・ミロ、パブロ・ピカソ、ルイス・ブニュエル、イヴ・タンギーらのシュルレアリスムの作家や画家に紹介した。ブルトンは彼女の小説と絵画を絶賛し、彼の勧めで1938年にパリ、次いでアムステルダムで開催された国際シュルレアリスム展(フランス語版)に出品するほか、1940年にブルトンが編纂したシュルレアリスムの傑作集『黒いユーモア選集』にも彼女の作品が掲載された(本書は当初、ヴィシー政権により発禁処分を受けた)。 キャリントンはまた、ドラ・マール、リー・ミラー、ヴァランティーヌ・ユーゴー(フランス語版)、ヌーシュ・エリュアール(フランス語版)らと並んで、シュルレアリストにとってのミューズである「ファム・アンファン(子どものように純真で、魅惑的な存在)」と称されたが、後に、「私は誰かのミューズになっている暇なんかなかった・・・家族に反抗し、芸術家になるのに精いっぱいだったから」と語っている。 1938年の夏、キャリントンは南仏のサン=マルタン・ダルデシュ(フランス語版)(オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏、アルデシュ県)で古い農家を買い取り、エルンストとともにここに移り住んだ。パリの喧騒を逃れて二人だけで暮らし、制作に専念するためであり、親友のエリュアールと妻ヌーシュのほか、ローランド・ペンローズ(フランス語版)、リー・ミラー、アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ、レオノール・フィニら、ごく親しい画家や作家だけをこの家に招いた。パリのマン・レイには、「エリュアールとヌーシュ以外の誰にも私たちの居場所を知らせないで」と書き送っている。現在もこの家の外壁にエルンストのレリーフが残っている。
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