シカゴ・カブス
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シカゴ・カブス(英語: Chicago Cubs、略称: CHC)は、メジャーリーグベースボール(以下、MLB)ナショナルリーグ中地区所属のプロ野球チーム。本拠地はイリノイ州シカゴにあるリグレー・フィールド。
- 1 シカゴ・カブスとは
- 2 シカゴ・カブスの概要
シカゴ・カブス
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移籍1年目の2004年は開幕直後からスランプに陥り、3・4月の月間打率が.233と低迷したため「(トレード相手の)崔煕渉のままの方がよかった」という声も出たが、次第に調子を上げて雑音を封じた。シーズン終了時には、本塁打は2年連続で30の大台を上回り、自己最高となる39二塁打・98打点をマークしていた。2005年は前年から一転して開幕から好調。4月の月間MVPに選出され、4月・6月は4割を上回る月間打率を記録。オールスターにも初めて選出された。最終的には打率.335で首位打者のタイトルを獲得し、二塁打もリーグ最多の50本を記録。シルバースラッガー賞とゴールドグラブ賞を同時受賞した。MVP投票でも3位になった。 翌2006年3月には、国際大会の第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)にアメリカ合衆国代表の一員として出場。2次リーグの日本戦で清水直行から同点の2点本塁打を放つなど、4試合で3本塁打・8打点の活躍を見せた。WBCが終了しMLBレギュラーシーズンも開幕していた4月11日には、この年が最終年になっていた契約を破棄した上で新たに5年総額6,500万ドルの大型契約をカブスと締結している。しかし、その2週間後のドジャース戦でラファエル・ファーカルと衝突し、手首を骨折。長期欠場を余儀なくされ、この年の成績は打率.286・8本塁打・30打点に終わった。 2007年には150試合に出場し、2度目の打率3割を記録するなど復調。オールスターにも2度目の選出を果たすなど活躍した。ただ1番・2番の打者がチャンスメーカーとして機能しなかったため、得点圏打率.364とチャンスでよく打ったにもかかわらず打点は82にとどまっている。2008年は前年を超える90打点を挙げたが、7月以降は本塁打をわずか5本しか放てず、シーズン通算でも20本に終わった。2009年は4年ぶりの30本塁打・100打点を記録。OPS.972もリーグ4位と、2005年以来の打撃好調なシーズンとなった。
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シカゴ・カブス(1984年 - 1986年)
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「デニス・エカーズリー」の記事における「シカゴ・カブス(1984年 - 1986年)」の解説
移籍後も当初は不安定だったが徐々に復調。10勝・防御率3.03を記録し、チームの地区優勝に貢献。サンディエゴ・パドレスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは2連勝で王手をかけた後の第3戦に先発したが、6回途中5失点で敗戦投手。チームはその試合から3連敗で39年ぶりのリーグ優勝を逃した。オフにFAとなるが再契約。 1985年は好調だったが途中故障で離脱するなど11勝。 1986年は6勝11敗・防御率4.57と不本意な成績に終わる。後にこの時期アルコール使用障害によって苦しんでいたことを告白した。 1987年開幕直前の4月3日にマイナー3選手との交換トレードで、1選手と共に故郷のオークランド・アスレチックスに移籍。
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シカゴ・カブス
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「グレッグ・マダックス」の記事における「シカゴ・カブス」の解説
1984年のMLBドラフトでカブスから2巡目(全体31位)に指名を受け入団。1986年9月にセプテンバー・コールアップにより20歳の若さでメジャーに昇格し、9月3日のヒューストン・アストロズ戦でデビュー。シーズン最後の登板となった9月29日のフィリーズ戦では、同年デビューした兄マイクと史上初の新人兄弟同士の先発投手として投げ合い、勝利した。1987年はほぼ1年を通じてプレイしたが、6勝14敗・防御率5.61に終わる。1988年はディック・ポール投手コーチの助言もあって開幕から勝ち星を量産。5月10日のサンディエゴ・パドレス戦では延長10回を完封。5月22日から7月10日にかけて9連勝を記録するなど前半戦で15勝3敗・防御率2.14を記録し、自身初のオールスターゲームに球団史上最年少で選出されたが、登板機会はなかった。後半戦は3勝5敗・防御率4.92と調子を落としたが、18勝8敗・防御率3.18を記録した。 1989年はリーグ2位の19勝を記録し、チームの地区優勝に貢献。サンフランシスコ・ジャイアンツとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦と第4戦に登板したが、第1戦でウィル・クラークに満塁本塁打を浴びるなど不本意な投球で2敗を喫し、チームも1勝4敗で敗退した。サイ・ヤング賞の投票では3位に入った。1990年4月29日のフィリーズ戦でメジャー記録の1試合7刺殺を記録した。初のゴールドグラブ賞を受賞し、以後18回受賞する。 1992年は20勝11敗・防御率2.18、リーグ最多の268.0イニングの成績でトム・グラビンと並んで最多勝利のタイトルを獲得し、サイ・ヤング賞を初受賞。シーズン中に総額2,850万ドルで契約延長を打診されたが拒否。オフの10月26日にフリーエージェントとなった。
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「シカゴ・カブス」の例文・使い方・用例・文例
- 大リーグ,シカゴ・カブスのサミー・ソーサ選手(34)が,6月3日の対タンパベイ・デビルレイズ戦の1回に退場処分になった。
- シカゴ・カブスの福(ふく)留(どめ)孝(こう)介(すけ)選手が大リーグで華々しいデビューを飾った。
- ロサンゼルス・ドジャースやシカゴ・カブスなど複数のメジャーリーグのチーム間での田中投手をめぐる獲得競争は激しかった。
- 4月16日,ニューヨーク・ヤンキースの田中将(まさ)大(ひろ)投手は,ヤンキースタジアムでのシカゴ・カブスとのダブルヘッダー第1試合で登板し,チームを3-0の勝利へと導いた。
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