コルヌマン夫人を巡って
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「カロン・ド・ボーマルシェ」の記事における「コルヌマン夫人を巡って」の解説
1781年10月、ボーマルシェはあるナッサウ大公妃の邸宅に大勢の人とともに食事に招かれ、その席である女性の話を耳にした。その女性は夫にひどい扱いを受けており、邸宅に監禁されているという。大公夫妻はこの女性を自由の身にしてやりたいと考えていたため、ボーマルシェに協力するように求めたが、これまで行動を起こすたびにトラブルになってきたことを理由に、初めは消極的であった。しかし、その女性の夫が出した手紙を読むうちに次第に態度を変え、女性の救出に協力する気になったようだ。 この女性は、名をコルヌマン夫人という。スイスに生まれたが、13歳で両親を失った。15歳の時、親族の勧めに従い、持参金36万リーヴルを携えて銀行家であるコルヌマンと結婚した。次第にドーデ・ド・ジョサンという男を愛人にするようになったが、これは彼女自身の浮気心からではなく、コルヌマン自身がそそのかしたのである。ドーデの裏には軍事大臣モンバレー公爵がいることを知り、彼を通じて軍事大臣に取り入って私腹を肥やそうとしていたのだ。この試みは見事に成功したが、1780年12月に軍事大臣が交代すると、ドーデの利用価値が無くなったために彼を切り捨てた。その一方で、銀行業の赤字を解消しようと夫人に持参金を寄越すように迫ったが、拒否されたため、国王の封印状を手に入れて身重の夫人を牢獄へぶち込んだのであった。 早速救出に乗り出したボーマルシェは、ヴェルサイユに赴き、ナッサウ大公夫妻とともに手分けをして関係者へ働きかけた。その結果、12月17日付で夫人を産科医の家に移して看護せよとの王の命令書を獲得した。こうして夫人は産科医のもとで出産を済ませ、コルヌマンの手の届かないところで法による庇護を受けることができた。離婚が許されない時代であったから、コルヌマンは和解しようと考えたようだが、うまくいかず、結局別居状態のまま数年間が経過した。 それから5年以上が経過した1787年2月、突然この件に関するコルヌマン夫人、ナッサウ大公夫妻、ドーデ・ド・ジョサン、警察長官ルノワール、ボーマルシェの5人を標的とした中傷文書がパリに大量にばらまかれた。この文書には「コルヌマン」と署名が入っていたが、実際それほど頭の切れる男ではなかったようだから、このような思い切った真似は出来なかったろうし、思いついたのもまた彼ではないだろう。この文書を手掛けたのは、弁護士のベルガスという男であった。この弁護士は売名しか頭にない悪徳弁護士で、生涯にわたって中傷や名誉棄損で裁判を引き起こし続けた。弁護士というよりデマゴーグというほうがふさわしい輩である。たまたまコルヌマンと出会ったベルガスは、コルヌマンの抱えるこの問題を絶好の機会と捉えたようで、彼の顧問弁護士となって、この一件に散々脚色を加えて文書を発表したのであった。ベルガスが特に標的としたのは、ボーマルシェの栄光とミラボー伯爵との論争で見せた弱腰であった。コルヌマンを妻に裏切られた哀れな夫に仕立て上げ、妻を救出した者たちを極悪非道な人間として描く。これを世に広めるためには人目を惹く必要があるが、そのためにボーマルシェを徹底的に叩いたのである。 これに対抗するために、ボーマルシェも反論文書を発表した。コルヌマン夫人を救出した事実を認めた上で、彼女がいかに夫から虐待されていたか、コルヌマンがいかに暴虐非道な男であるかを、その証拠となる手紙とともに論理的に示した。この論理的な反論には何も返答できないと考えたのか、この後のベルガスの攻撃はもっぱらボーマルシェへの中傷に絞られることになった。ベルガスのしつこさは相当なもので、この問題が起こってから1年半の間に200以上の中傷文書がばらまかれている。ボーマルシェも決して黙っていたわけではなかった。コルヌマンとベルガスを名誉棄損で訴え出るとともに、複数の反論文書の公開で対抗しようとしたのだが、市民たちはベルガスにこそ正義があると信じ込んでいたため、大した効果を挙げなかった。裁判ではボーマルシェが勝訴したが、ベルガスによる中傷攻撃で失った人気は回復しなかった。
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