キングスクレア時代・後半とは? わかりやすく解説

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キングスクレア時代・後半(1875年 - 1905年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/01 05:55 UTC 版)

ジョン・ポーター」の記事における「キングスクレア時代・後半(1875年 - 1905年)」の解説

1875年ホーリー卿は没した。このときホーリー卿の遺言により、ポーター調教師にはキングスクレアの施設一切を4,000ポンド購入できるオプション遺贈された。ホーリー卿はキングスクレアに8,000ポンド投じていたので、このオプションはその半値でキングスクレアを取得できるという寛大なものであったポーターはこの選択権行使したうえで、さらに20,000ポンド投じてキングスクレアを拡張した。この拡張工事によって、キングスクレアはイギリス代表するサラブレッド調教地に変貌遂げた馬房広げられ風通しがよくなり、滑りやすかった床は改善され排水設備整えられた。また、当時まだ身分として軽視されていた馬丁厩務員)と見習い騎手のための浴室トイレ建設したことも特筆される。そして近傍ウォーターシップダウンWatership Down)という丘陵サラブレッド全力疾走するための起伏のある走路造営した。この走路は「ダービー・ギャロップ」と呼ばれ現代にも受け継がれている。当時ポーター腸チフス患っていながら、自ら製図板にむかい図面描いた自伝綴っている。 ホーリー卿の馬がいなくなった最初3年間、ポーター調教師醸造業者のフレデリック・グラットン(Frederick Gretton)に依存することになった。その主な活躍馬アイソノミーページェントPageant)、プレストンパンズ(Prestonpans)などである。ただ、グラットン馬券儲けることへの執着強く馬券売り場ですぐに他人に食ってかかるなど行状悪く評判の低い人物だった。1877年には、グラットン馬券倍率高くなるようにわざとアイソノミー出走をやめさせ、40,000ポンド荒稼ぎした。1880年秋に自分持っている有力馬をレース寸前取り消す手口ブックメーカーや一般客を欺き利益をあげた。グラットンは「イギリス世間に最も嫌われている馬主」となり、こうした狡猾さ悪辣さを善しとしないポーターグラットンのあいだも不和になったポーターこの年限りグラットン縁を切ることに決め、その所有馬をすべてキングスクレアから追い出した1880年大富豪グラットン手を切った後も、ポーターのもとには次々と有力馬主競走馬預託するようになり、厩舎困窮することはなかった。最初に縁があったのがフレデリック・ジョンストーン卿(Sir Frederick Johnstone)とアリントン男爵1st Baron Alington)による通称「The Old Firm」という馬主連合である。1881年に彼らは所有馬すべてをポーター厩舎移籍させてきた。同年スタンフォード伯爵7th Earl of Stamford)、さらに秋に初代ウェストミンスター公爵が馬を移してきた。 翌1882年ウェストミンスター公爵ショットオーヴァー2000ギニーダービーを勝ち、スタンフォード伯爵のゲハイムニス(Geheimniss)がオークス制した1883年は「The Old Firm」ことフレデリック・ジョンストーン卿・アリントン男爵のセントブレーズ(St. Blaise)がダービー優勝1884年にはパラドックスParadox)がデューハーストプレートを勝ち、翌1885年2000ギニー制覇した。この1885年ウェストミンスター公爵持ち馬は、フェアウェルFarewell)が1000ギニー優勝しオーモンドがデューハーストプレートに勝っている。さらに1886年にはこのオーモンド2000ギニーダービーセントレジャーいわゆるイギリスクラシック三冠」を無敗制した。この時期ジョン・ポーター厩舎いわゆる黄金時代とされている。 また、1886年からはアルバート・エドワード皇太子からも馬を預かるようになった。これはフレデリック・ジョンストーン卿と皇太子オックスフォード大学時代学友だったことから実現したのである。しかし、預かった皇太子所有馬の中からはこれといった活躍馬は出なかった。理由明らかにされていないが、1892年皇太子所有馬別の調教師のもとへ移してしまった。移籍先ポーターとは親友だったリチャード・マーシュ調教師Richard Marsh)である。マーシュ調教師推測では、皇太子所有馬管理委ねられていた代理人軽薄で口が滑らかなタイプで、厳粛まじめくさったタイプポーター調教師とそりが合わなかったのだろうとしている。同じ1892年には、ポーターはヒルシュ男爵Maurice de Hirsch)のラフレッシュ1000ギニーオークスセントレジャーを勝ち「牝馬三冠」を達成している。しかしこの年暮れに、ヒルシュ男爵皇太子とともにポーターのもとから馬引き上げマーシュ調教師ところへ移してしまった。 皇太子ポーターに馬を預けていた当時ポーター皇太子のためにパーディタという牝馬仕入れ900ポンド皇太子に買わせた。当時周囲人々は「こんな馬を皇太子売りつけるとは、ポーター皇太子破滅させるつもりだろう」と評していた。1892年皇太子はこれを含めた全ての持ち馬をすべてマーシュ調教師ところへ移したのだが、その翌年パーディタ二冠馬パーシモン産んだ。さらに4年後には三冠馬ダイヤモンドジュビリー産んでいる。結局パーディタ産んだ馬は、皇太子に72000ポンド賞金15ポンド種付け収入もたらし皇太子馬主チャンピオンになった。しかしいずれもマーシュ厩舎預けられ走った1894年には「The Old Firm」のスロッスル(Throstle)がセントレジャー勝った1899年には、ポーター調教師としては3頭目三冠馬となるフライングフォックス馬主ウェストミンスター公爵)が出たこの間1898年自前厩舎解散させたポートランド伯爵預託も受けるようになり、1900年ラロシュLa Roche)がオークス優勝ウィリアムザサードダービー2着となった。翌1901年にはウィリアムザサードアスコットゴールドカップ制した

※この「キングスクレア時代・後半(1875年 - 1905年)」の解説は、「ジョン・ポーター」の解説の一部です。
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