ジョン・ポーターとは? わかりやすく解説

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ジョン・ポーター

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/02 23:25 UTC 版)

ジョン・ポーター(John Porter、1838年3月2日[1] - 1922年2月21日[要出典])は、イングランドサラブレッド平地競走調教師イギリス三冠馬を3頭調教した。「ヴィクトリア時代で間違いなく最も成功した調教師[2]」(英国国立競馬博物館)、「19世紀の最後の四半世紀における最大の調教師[3]」(競馬史家のロジャー・ロングリグ)と評されている。


注釈

  1. ^ ウィリアム・パーマー医師は、少なくとも11人を毒殺したと考えられている。逮捕のきっかけになったのは、大穴馬券をあてた人物の持ち金を狙って毒殺したことだった。投獄後も本人は無罪を主張、裁判で死刑が言い渡されて絞首刑となった[5]
  2. ^ 『John Porter of Kingsclere / an Autobiography』p1では「1861年」とあるが、The Wizardの2000ギニー優勝は1860年。
  3. ^ ジョン・バーラム・デイは1820年代から1830年代に騎手として牝馬クルシフィックスでの変則三冠をはじめ、英国クラシックレース16勝をあげる活躍をした。1830年代後半からは調教師も兼任するようになっており、クルシフィックスは自ら調教し騎乗している。当時の英国を代表する調教師であったが、その一方で数多くの「いんちき」を行うことでも悪名高かった。(当時は必ずしも「いんちき」は禁止行為ではなかった。)たとえば自厩舎の競走馬をわざと凡走させて別の馬の馬券を買って大儲けをしていた[6]クルシフィックスセントレジャーステークスに出るときも八百長を計画したが、陰謀を記した指示書を郵送する相手を間違ってしまい、事前に露呈した。第65回ダービーステークス(1844年)でも本命馬と対抗馬の有力2頭をわざと負けさせる八百長を仕組んで発覚したが、別の馬(ランニングレイン)のすり替え事件があったために追及を免れている[7]。その翌年もダービーで自身が管理する人気馬オールドイングランド(Old England)に毒を盛ってわざと負けさせ、自分は「オールドイングランドが負ける」に賭けて大儲けをした。このときは厳しく追及され、最終的には息子のウィリアム・デイの仕業ということにして幕引きをした。ウィリアムは競馬界追放処分になったが、のちに復帰、後述するロードオブジアイルとセントヒューバートの八百長に加担している。
  4. ^ 弁護士のヘンリー・パドウィックは、デイ調教師やブックメーカー連中とつるんで金持ちを嵌めていた。有力馬の馬主にパドウィックが高利で金を貸してブックメーカーから馬券を買わせ、調教師がその馬をわざと負けさせるという手口だった。中でもハーミットをめぐり、大富豪の4代ヘースティングス侯爵(4th Marquess of Hastings)を破産させ自殺に追い込んだことでよく知られている[8]。競馬史家ロジャー・ロングリグはパドウィックを「19世紀競馬界におけるもっとも悪質な人物」としている[9]
  5. ^ 英国騎手チャンピオン2回。ダービー3勝を含め英国クラシック通算8勝[11]
  6. ^ これもいんちきが原因だった。1855年春の時点で、パドウィック所有のセントヒューバート(St.Hubert)という3歳馬が2000ギニーの本命になっていて、デイ調教師に預けられていた。パドウィックは自らセントヒューバートの馬券をたっぷり購入していたのに、デイ調教師は自分の息子のウィリアム・デイ調教師のロードオブジアイル(Lord of the Isle)を勝たせるため、わざとセントヒューバートの調教を怠った。目論見通りロードオブジアイルが勝ってデイ父子は大儲けしたが、パドウィックにバレて馘になったのだった。以後、デイは息子の世話になって暮らした。
  7. ^ 従前のミチェルグローブから北東に約10km。
  8. ^ この日はちょうどドンカスター競馬場のセントレジャーステークスの開催日で、ポーター調教師・ウェルズ騎手はこの日の第1競走と第2競走を連勝している[4][12]
  9. ^ 1着Green Sleeve(牝馬)、アタマ差2着は種牡馬として成功したRosicrucian。
  10. ^ 1着Green Sleeve
  11. ^ 1着ブルーガウン
  12. ^ 1着The Palmer
  13. ^ 後述するように、キングスクレア厩舎はのちに拡張され、イギリスを代表する名調教地となった。20世紀にはエリザベス女王シェイク・モハメドが持ち馬を預けるようになり、ここを拠点とした有名馬としてミルリーフロックソングがいる。
  14. ^ すでにイギリスのトップクラスだったポーター調教師のために用意された住居が、このように粗末なものであることが、当時の「調教師」の地位の低さを示すものとされている[12]
  15. ^ ミドルパークステークスとプレンダーガストステークスの優勝馬グリーンスリーヴ(Green Sleeve)、ミドルパークステークス2着のロジクルシアン(Rosicrucian)、クリアウェルステークスやシャンペンステークスの勝ち馬ブルーガウン(Blue Gown)
  16. ^ 3頭とも冬の間に風邪を引いて体調を落としていたために、2000ギニーは凡走したり回避したりしている[17]
  17. ^ ポーター調教師は、ダービーの直前にキングスクレアで秘密裏に3頭の試走をしており、これを観たホーリー卿はブルーガウンに低評価を下していた。しかしウェルズ騎手は騎乗馬にブルーガウンを選び、クビ差の優勝に導いた[17]
  18. ^ ペロゴメスは次走のドンカスターステークスで同世代のダービー馬プリテンダー(Pretender)を破った[12]
  19. ^ フレデリック・グラットンは、イギリスの大手ビールメーカーバス・ブリュワリーの前身で、当時イギリス最大手のBass, Ratcliff & Grettonの社主の次男。1867年にオーナー社長の父が死ぬとフレデリックは会社の権利の8分の1を相続し、その金で競馬にのめり込んだ。
  20. ^ アスコットゴールドカップ連覇など10勝。詳細はアイソノミー参照。
  21. ^ 1878年ドンカスターカップ優勝のほか、1877年・1878年チェスターカップ(Chester Cup)連覇など。
  22. ^ リバプールオータムカップ(後述)、ホープフルステークス、クリテリオンステークス
  23. ^ アイソノミーは2歳の頃から頭角を表していた。ポーターはアイソノミーを1878年の3歳クラシックの有力馬と考えていたのに、しかしグラットンはアイソノミーをこれらの競走に出場させることを拒んだ。グラットンはアイソノミーの馬券で大儲けを狙っており、世間がアイソノミーのことを忘れて人気がなくなるのを待っていたのだった。1877年の秋まで待って、グラットンはアイソノミーを秋の大レースの一つケンブリッジシャーハンデ(Cambridgeshire Handicap)に出走させた。99ポンド(約45キログラム)の軽ハンデが与えられたアイソノミーには世間は見向きもしておらず、馬券は40対1の倍率がついていた(※「40対1」は、1ポンドの掛け金に対して40倍(40ポンド)の利益があることを表す。すなわち元本1ポンド+利益40ポンド=41ポンドの払い戻しとなり、日本で普及している倍率表示方式では「41.0倍」となる。)。アイソノミーはこれを楽勝した。1着賞金は約2200ポンドだったが、グラットンはこれとは別に馬券で40,000ポンド儲けた。この額は、当時のクラシック三冠をすべて勝った場合の賞金よりも多かった。その後アイソノミーは1880年夏まで走り数々の大レースを勝った。しかし後述のように1880年限りでポーターがグラットン所有馬を追い出したため、現役を退くことになった[4][18]
  24. ^ グラットンは中長距離を中心に使われてきたフェルナンデス(Fernandez)という有力馬をもっていた。(同馬はセントジェームズパレスステークスベンドアの2着になったことがあるような馬である。)一方のプレストパンズは2歳時に短距離路線を使われたきりだった。グラットンはこの2頭を12ハロンのリバプールオータムカップに登録し、フェルナンデスの鞍上に当時のトップジョッキーであるジョージ・フォアダム(George Fordham)を据えていた。ブックメーカーも一般客もみな、フェルナンデスを本命視していた。ところがグラットンはフェルナンデスの馬券がたっぷり売れるのを待って、レース直前にフェルナンデスの出走を取り消し、フォアダム騎手をプレストンパンズに騎乗させて出走させた。フォアダム騎手は長距離実績皆無のプレストンパンズを勝利に導いたが、世間は騙し討ちされたと憤り、優勝馬を取り囲んで罵声を浴びせた[4][12][19][20]
  25. ^ この結果としてアイソノミーも現役を退いて種牡馬となることになった。
  26. ^ 当時としては珍しいことだが、彼らは30年以上にわたり、共同で競走馬を所有して走らせていた。当時の世間の人たちは彼らを「The Old Firm(例の連中)」と呼んだ。ただし実際の出走にあたっては、公式には共有馬主という制度がないので、フレデリック・ジョンストーン卿の個人名義で出走させている。フレデリック・ジョンストーン卿は1860年代までジョセフ・ホーリー卿と組んでいて、その後はアリントン男爵と共にデイ一族の厩舎に馬を預けていた[21]
  27. ^ パラドックスは競り市でポーターが購買し、デビュー前にウェストミンスター公爵がこれを買い入れた。ところが人気を集めたデビュー戦で出遅れて3着に敗れると、ウェストミンスター公爵はパラドックスを売却してしまった。購入したのはアメリカ人実業家のW・B・クロート(William Broderick Cloete)である。その後パラドックスはデューハーストステークス、2000ギニーを勝ち、ウェストミンスター公爵の「見る目のなさ」の好例とされるようになった[23]
  28. ^ 皇太子は毎年10頭から12頭の競走馬をポーターに任せたが、1892年までのあいだに大レースの勝ち鞍はなく、通算でも18勝にとどまった[4]
  29. ^ もともとヒルシュ男爵は皇太子と親交が深く、ポーターにラフレシュを預けたのも皇太子のつてがあってのことだった。そのため、皇太子が馬を移籍させるときにヒルシュ男爵も帯同することになったのだった[24]
  30. ^ ウォー調教師はスコットランドの競馬一族の出自である。1903年にパトロンである馬主が死んで厩舎が解散していた。しかしながら、ウォー調教師の時代には、キングスクレアからはさほど活躍馬が出なかった。ポーターの跡を継いだ翌年の1906年にはウェストミンスター公爵のトラウトベック(Troutbeck)でセントレジャーなどを制したものの、次のクラシック優勝は1910年のウィンキポップ(Winkipop)の1000ギニー勝ちまでなく、それがキングスクレアでの最後のクラシック勝利となった。1919年にキングスクレアの株式会社は解散し、そのあと第一次世界大戦・第二次世界大戦のあいだキングスクレアはあまり顧みられなかった。1950年代に再興されたキングスクレアからは20世紀を代表する名馬の1頭ミルリーフが登場した[13]

出典

  1. ^ a b c 『John Porter of Kingsclere / an Autobiography』p1
  2. ^ a b c d 英国国立競馬博物館(the United Kingdom's National Horseracing Museum)Porter, John (1838 - 1922) 2018年10月17日閲覧。
  3. ^ a b c d 『競馬の世界史』p152
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp bq 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』p469-470「PORTER,John (1838-1922)」
  5. ^ a b c d e 英国放送協会,Stoke & Staffordshire,Local Heroes,2014年11月13日付,William Palmer,2018年10月17日閲覧。
  6. ^ 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』p162-164「DAY,John Barham (1793-1860)」
  7. ^ 『ダービー その世界最高の競馬を語る』p27-34「ランニングレイン事件」
  8. ^ a b 『ダービー その世界最高の競馬を語る』p36-50「小柄な美女と男友達」
  9. ^ 『競馬の世界史』p131
  10. ^ 『イギリスの厩舎』p50-53「キャッスル・ステーブル(アランデル)」
  11. ^ 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』p647-648「WELLS,John (1833-1873)」
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae 『英国競馬事典』p211-213「ジョン・ポーター」
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『イギリスの厩舎』p11-15「キングスクレア イアン・ボールディング」
  14. ^ a b c d 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』p266-267「Hawley,Sir Joseph Henry,3rd Bt (1814-1875)」
  15. ^ 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』p368-369「Manning,George (d.1863)」
  16. ^ a b c d e f g h Park House Stables,Kingsclere History,Kingsclere 1865-1905,2018年10月17日閲覧。
  17. ^ a b c d e 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』p66-67「Blue Gown」
  18. ^ a b c d 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』p298「Isonomy」
  19. ^ 『The Demon: The Life of George Fordham』
  20. ^ a b 『Baily's Magazine of Sports & Pastimes vol.XXXVI』p296-297
  21. ^ a b c 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』p321「JOHNSTONE,Sir Frederic John William ,8st BT (1841-1913)」
  22. ^ 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』p10-11「ALINGTON,Henry Gerard Sturt,1st Baron (1825-1904)」
  23. ^ 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』p441「Paradox」
  24. ^ a b c 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』p334「La Fleche」
  25. ^ a b c 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』p450「Perdita II」
  26. ^ 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』p615「Throstle」


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