ウクライナ人民共和国・ウクライナ国・西ウクライナ人民共和国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 21:41 UTC 版)
「ウクライナの歴史」の記事における「ウクライナ人民共和国・ウクライナ国・西ウクライナ人民共和国」の解説
1917年のロシア革命を機にウクライナはいくつもの勢力が独自の政府を組織して独立を宣言したが、いずれの勢力も互いに、またペトログラートのボリシェヴィキ革命政府と対立し、特に十月革命以降激しい内戦状態に陥った。これをロシア側ではロシア内戦と呼ぶ「ロシアの内戦」に包含しており、「ロシア内戦のウクライナ戦線」などと呼ばれているが、ウクライナではウクライナ内戦と呼ぶ。同時に、ボリシェヴィキとの戦闘をウクライナ・ソビエト戦争と呼ぶ。また、1918年からはポーランド・ソビエト戦争と呼ばれる戦争が始められたが、その主戦場となったのはウクライナ地方であり、第一次世界大戦時の連合国各国派遣軍やドイツ帝国軍なども加わって激しい戦闘が繰り返された。 主要な国家としては、中部ウクライナから東ウクライナにかけてウクライナ人民共和国、西ウクライナに西ウクライナ人民共和国が成立した。 十月革命時の最大勢力はキエフを首都とするウクライナ中央ラーダのウクライナ人民共和国で、臨時政府派、ボリシェヴィキが続いた。第三勢力のボリシェヴィキと共同して第二勢力の臨時政府派を潰した中央ラーダは、その後ボリシェヴィキの宣戦布告を受け戦争状態に入った。1918年1月には中央ラーダは首都を追われジトーミルで体勢を立て直した。2月に中央同盟国とブレスト=リトフスク条約を締結したウクライナ人民共和国は、独・墺軍と共同してボリシェヴィキを一挙に壊滅し、クリミア半島に至る広大な領土を手にした。 4月にドイツの軍事力を背景としたヘーチマンの政変が起こされ、国号はウクライナ国に改められた。同国は安定した発展を見せたが、ドイツの連合国への降伏により自体は一転、ウクライナ国政府はディレクトーリヤ勢力に敗れ、ディレクトーリヤはウクライナ人民共和国を復活させた。 一方、西ウクライナでは、ウクライナ国民ラーダがリヴィウを首都とする西ウクライナ人民共和国を成立させた。しかし、右岸ウクライナの併合を目論むポーランドとの戦争に敗れ、同共和国領はポーランドに併合された。 一方のウクライナ人民共和国もかつての勢いを取り戻すことができず、その後ウクライナは全土で内戦状態に陥った。主な勢力としては、「不可分の大ロシア」を標榜した帝政派の南ロシア軍など白軍(白衛軍)、黒海より侵入し「不可分のロシア」への支持から白軍を支援したフランス軍やイギリス軍、アナキストのネストル・マフノ率いるマフノ運動と呼ばれる農民アナキズムのウクライナ革命蜂起軍、ベッサラビア方面に侵攻したルーマニア軍、西部より侵攻したポーランド軍、そしてロシア・ボリシェヴィキとボロチビストなどのウクライナ・ボリシェヴィキがあった。 マフノ運動は一時期、ボリシェヴィキの赤軍や白軍を放逐した。ウクライナ人民共和国は、マフノ軍や白軍との戦いで消耗し、赤軍に対抗するためポーランドと連合した。ポーランド参戦以降のウクライナの戦いをポーランド・ソビエト戦争と呼ぶことがある。しかし、ポーランドの裏切りや軍隊内での伝染病の発生によりウクライナの命運は尽きた。中央ラーダ・ディレクトーリヤの残存勢力は、国外へ逃れ亡命ウクライナ人民共和国政府を立ち上げた。 一方、ウクライナ・ボリシェヴィキは、当初はモスクワのボリシェヴィキからは独立した組織であったが、次第にモスクワの支配下に置かれるようになっていった。白軍は一時はモスクワに迫るほどの勢力を持ったが、マフノ軍との戦いによる消耗と英仏軍の干渉の失敗により赤軍に敗れた。 ウクライナの独立勢力のすべてが「反ボリシェヴィキ」で一致していたにも拘らず、互いに協力せず潰し合いとなった最大の原因は、白軍の掲げた「不可分のロシア」という政策と反社会主義思想が原因であったとされる。また、マフノ軍はアナキストでありながら主に赤軍に協力して強大な白軍勢力を漸減したことも、赤軍勝利の大きな要因であった。マフノ運動賛同者は、最終的には赤軍によって老若男女ほぼ皆殺しにされた。 1922年にかけて共産主義のロシアに対して強く抵抗したので、ソ連の政権が「ウクライナ人の問題」を解決するために、ウクライナ人が住む地域において人工的な大飢饉を促した。1933年に「ヨーロッパの穀倉」といわれたウクライナではホロドモールによって数百万人が餓死した。 内戦は最終的には1921年の白軍の壊滅により終結したが、ウクライナでは1919年のウクライナ社会主義ソビエト共和国の成立を経て、1922年にはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国や白ロシア・ソビエト社会主義共和国とともにソビエト連邦を結成した。当初はウクライナ政府にもある程度の意思決定権が与えられていたが、それは徐々に制限されるようになり、結局ソ連の結成によりまたもやウクライナの独立は失われることとなった。ロシアにとってウクライナはすべての産業の中心地であり、手放すわけにはいかなかった。また、内戦の終結後西部のハルィチナー地方など一部地域はポーランド領となった。ルーマニアはウクライナの一部の併合により「大ルーマニア」の夢を達成した。
※この「ウクライナ人民共和国・ウクライナ国・西ウクライナ人民共和国」の解説は、「ウクライナの歴史」の解説の一部です。
「ウクライナ人民共和国・ウクライナ国・西ウクライナ人民共和国」を含む「ウクライナの歴史」の記事については、「ウクライナの歴史」の概要を参照ください。
- ウクライナ人民共和国・ウクライナ国・西ウクライナ人民共和国のページへのリンク