イコノクラスム終結(787年の第七全地公会~9世紀半ば)
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「イコン」の記事における「イコノクラスム終結(787年の第七全地公会~9世紀半ば)」の解説
レオン4世およびコンスタンティノス6世の摂政となり、後に女帝となったイリナ(エイレーネー)は、イコン賛成論者だった。787年の第七全地公会は彼女の働きによって召集された。この全地公会議において、754年の「頭なしの会議」の決議は一切無効とされ、イコンの神学的位置づけが真剣に討議され、以下のように定理(教義)を確認、決議した。 書に依り又は書を以てせずして我等の爲に制定されたる敎會の傳を我等悉く新説を附會せずして遵守せん、書く所の聖像は福音傳ふる所の記事に符号し且我等をして神言の藉身の眞實にして想像的に非ざるを信ぜしめ彼と同様の利益るあものなるを以て其の傳の一つなり。蓋し彼れの此れに指示する所彼れ必ず此れに説明すればなり。されば我等は王の途を歩む者の如く我等の諸聖父の神出の敎と公敎會の傳とに循ひ(蓋し此敎は敎會に在ます聖神の敎たるを知るなり)極めて確實に且つ最も精密の調査を遂げて議定すること左の如し神の聖堂に聖なる器物及び祭服に壁に板に家に途に尊貴にして生命を施す十字架の象と等しく顔料(えのぐ)を以て書かれ美石及び其他適宜の物を以て製造せらるる尊貴にして且つ聖なるの像即ち我等の主、神、救主イイスス・ハリストス及び無玷の女宰、我等の生神女並に尊貴なる使徒及び諸聖人克肖者の像を置くべし。蓋し屡次(しばしば)聖像の象(かたどり)を見るに由りて之に注目する者は其原像を想起して之を愛し接吻と敬拝を以て之を尊敬するの念を起すべし但し此叩拝は我等の信ずる所に依るに當(まさ)に唯一の神性に帰すべき眞の拜神に非ず乃ち尊貴にして生命(いのち)を施す十字架の象と聖福音經及び其他の聖物に對し薰香及び點燭を以て敬意を表するの例に傚ひ尊敬することにして即ち古時の敬虔なる慣例に行われたる如し。蓋し像に施す所の尊敬は其原像に移るものにして聖像に叩拜する者は之に書かれたる者に叩拜するなり。是れ蓋し我が諸聖父の敎の確(たし)かむる所にして地の極(はて)より極に至るまで福音を受けたる公敎會の傳なり。 — 第七全地公会三百六十七人の諸聖父の定理、上田将訳『聖規則書』正教会編輯局 明31. 7 1898 上記の確認された定理は、以下のようにまとめられる。 全き人としてこの世に存在した全き神であるハリストス(キリスト)を画き出すことは、神言の藉身に対する信仰を守ることである。 - 歴史的に存在した神ハリストスを画き出すことは、見えない神を想像し画き出す偶像とは異なる。見えない神が人となって、この世で見える姿をとったから(藉身)、その姿を画いても決して偶像にはならない。 イコンへの敬拝・尊敬は、画かれた原像に帰す。 - イコンそのものを崇拝するのではない。神への崇拝とイコンへの敬拝は違うのであり、神のみが崇拝の対象である。 「ラトレイア」も参照 この第七全地公会の後も論争はくすぶり続けたが、843年に皇后テオドラによって召集された公会議によってイコンの正統性が再確認された。大斎の第一主日は「正教勝利の主日」と呼ばれ、イコン論争におけるイコン擁護論の勝利を記憶している。 オリヴィエ・クレマンは、イコン論争の終結までの顛末について、帝国と教会の対立が教会の勝利に終わったことで、皇帝教皇主義は東ローマ帝国において消滅し、以後、教会と国家の協調(ビザンティン・ハーモニー)という考え方が開花していったとしている。 「ビザンティン・ハーモニー」も参照
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