「存在一性論」と「完全人間説」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/11 16:30 UTC 版)
「イブン・アラビー」の記事における「「存在一性論」と「完全人間説」」の解説
彼はイスラーム神秘主義におけるもっとも重要かつ高度な思想家であった。イブン・アラビーの思想の特徴をまとめると、「存在一性論」(waḥda al-wujūd)という存在論と、「完全人間」(insān kāmil)という人間論にそれぞれ代表させる事が出来る。この世界はすべて一者の自己顕現(tajallī)として理解される。すなわち、この世界には自存している「無限定存在」(wujūd muṭlaq)である神アッラーフと、それそのものでは非存在であるがアッラーフに依拠する事で初めて存在し得る「被限定存在」(wujūd muqayyd)である被造物に大きく分けられる。イブン・アラビーはこれに加え、それらのいずれとも異なる第三要素として「真実在の真実性(ḥaqīqa al-ḥaqā'iq)」を想定する。万物は見かけ上は全く違うように見えるが、実は全て神の知恵の中にある1形態に過ぎず、本質的には同一の物体であるとするのが「存在一性論」(Waḥda al-wujūd)である。(ただし、「存在一性論」という用語自体はイブン・アラビー自身は使用しておらず、最初に「存在一性論」という用語を使用し始めた人物が誰であるが諸説ある。近年、その候補者としてイブン・アラビーの批判者であったイブン・タイミーヤが最初のひとりであるとする研究が出されている。) また、人間とは神が持つ全ての属性の集合体によって構成されており、その中でもそれを自覚した「完全人間」(insān kāmil)と呼ぶべき人が預言者であり、ムハンマドはその最後の人物であるとする「完全人間」(insān kāmil)によって構成されており、人間は元から神の一部である以上、心や意識に苦痛をもたらす禁欲的な探求を採ることは無意味であると唱えたのである。 宗教と信仰の言葉では「神」と呼ぶべきものを、イブン・アラビーは哲学用語の次元で「存在」(wujūd)と呼ぶ。これは現実にこの世に存在している「存在者」や「現実存在」(mawjūd)とは全く異なる原理存在であるとする。そしてその存在の究極位をプロティノスの「一者」と同じように「存在の彼方」に置くと同時に、それが全存在世界の太源であると考えた。イブン・アラビーの「存在」は、無名無相、つまり一切の「…である」という述語を受け付けない。「神である」とも言えない。なぜなら神以前の神は、普通の意味の神ではないからである。「存在」(wujūd)には、「自己顕現」(tajallī)に向かう志向性が本源的に備わっており、「隠れた神」は「顕れた神」にならずにはいられない。無名無相の「存在」が「アッラー」という名を持つに至るこの段階は、ヴェーダーンタ哲学における意味分節する以前の全体存在である「上梵」から言葉によって言い表すことができる経験的世界である「名色」へと移り変わる段階にあたる、と井筒俊彦は解説する。 彼の思想は弟子のサドルッディーン・クーナウィー(Ṣadr al-Dīn al-Qunawī)らによって体系化され、全てのイスラーム教徒(及び一部のキリスト教思想家)に影響を与える一方で、イブン・タイミーヤに代表される反対論を唱える思想家を生み出し、イスラーム教の思想・歴史に大きな影響を与えることになる。
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