1990年のル・マン24時間レース 1990年のル・マン24時間レースの概要

1990年のル・マン24時間レース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/10 01:15 UTC 版)

1990年のル・マン24時間レース
前年: 1989 翌年: 1991
1990年のコース

概要

国際自動車スポーツ連盟(FISA、現国際自動車連盟、FIA)は主催者のフランス西部自動車クラブ(ACO)に露骨な嫌がらせをし[2]、「サーキットの直線距離は最長でも2km以内であるべきだ。もしシケインを設置しないなら公認を取り消す」と圧力を加えた[2]。ACOはさすがにこの圧力に抵抗できず、妥協で[3]サルト・サーキットの名物であった長さ約6kmの「ユノディエール」ストレートにシケインを2つ入れる[3][4]コース改修をし、ル・マンの伝統が一つ消えることになった[3]が、この改修はドライバーからは好評であった[3]。高速性能と中速性能のバランスがかなり変化する[3]と考えられ、また変速回数が増えてトランスミッションへの負担が増加する[2][3]ため、車両設計が注目されるポイントとなった[3]。コースは13.535km/周から13.600km/周へとわずかに長くなった[4]。シリーズ開催には2ヶ月前に査察を受けなければならず手続きが間に合わなかったので1990年も世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)に組み入れられず[5]、このことからスポーツカー選手権を主目的としていたメルセデス・ベンツは不出場を宣言した[3][5]

また、燃費規制のある車両規則の下で行なわれた最後の年となった。1991年も現行車両は新規則に基づく3.5リットル自然吸気エンジンを積んだ車両と混走はできる可能性もあったが、もしそうなったとしても何らかのハンディキャップが課されることが明らかで、これまでの車両が性能を発揮できる最後の年と考えられていた。

ポルシェ・962の性能が相対的に下がって来ており、前年優勝し当然最有力候補だったメルセデス・ベンツの欠場で、日本メーカーにはル・マン制覇の大きなチャンスと考えられた[6]

日産自動車シーマに代表される高額な大型乗用車の売り上げが好調で、大幅にレース予算を増やして体制強化を図って臨んだ[6]。ル・マンのポスターの絵柄に日産・R90CP[3]が選ばれ[2][5][6]、入場券[2]やプログラムにも日産の写真が使われ、ペースカーはフェアレディZ300ZXが務め[2][6]、新設されたシケインの1つの命名権を買い取り「ニッサン・シケイン」と命名する[3]など力を入れていることを隠さなかった。実際エンジンを担当した日産自動車中央研究所スポーツエンジン開発室の徹底した改良によりVRH35Z型[5][6]エンジンは840PS[6]、85kgm[6]を発揮するに至るなど戦闘力も信頼性も高く、有力候補の1つとされていた。車両はイギリスのローラオリジナルかほぼそれに近い日産・R90CKと、素材面から見直し日産独自の改良を加えた日産・R90CPを投入した[7]。日産のモータースポーツ責任者であった町田收は周囲の反対を押し切ってニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ(NME)監督に生沢徹を起用し、そのNMEから2台[5][6]ニッサン・パフォーマンス・テクノロジー(NPTI)から2台[5][6]ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル(ニスモ)から1台[5][6]、計3チーム5台のワークスマシンに加え、クラージュチーム・ルマンに1台ずつ[5]、計7台[5]を出場させた。この7台の出場車両に充分な数のエンジンを供給しなければならない上、5月連休明けにNMEの監督生沢徹から町田收に予選用エンジン製作の要請があり、スポーツエンジン開発室の林義正は断ったが、結局1基だけ製作することになった。町田收はこのエンジンを使用するかどうか、NPTIの監督キャス・キャスナーとニスモの監督水野和敏にも打診したがどちらも不要である旨返答があったという。日産自動車は未だ出始めで信頼性の低かったカーボンブレーキディスクが2,000km持つとの感触を得、NMEとニスモから出走する計3台に装着していた。また変速回数が増えることからニスモヒューランド製だったトランスミッションのギアを独自に開発した。町田收は決勝前夜に記者会見を開き、優勝宣言した[2]

トヨタ自動車トムスからミノルタタカキューの2台[5]サードからデンソートヨタ1台[5]とトップクラスの実力を持って3台が出場した。サードの監督は1973年のル・マン24時間レースに日本チームとして最初に出場した加藤眞だった[5]。ACOは新たにできた2つのシケインのうち1つはトヨタに売るつもりだったが、トヨタは「事故が起こった時にしか取り上げてくれない」として断り、チームの士気は一時下がった[2]

この時点では、1991年以降ロータリーエンジンが出場できない可能性も高く、マツダは背水の陣で臨んだ[2]。この年からジャッキー・イクスとアドバイザー契約を結び[2]、エンジンも前年から100馬力アップを実現し、ナイジェル・ストラウド製作のシャシに積んだマツダ・787を2台[5]と、前年モデルのマツダ・767を1台[5]、計3台[5]を投入し、初めてテレメトリーシステムも持ち込み[2]、大幅な戦力アップを図った。

それでも本命視されていたのはジャガーだった。WSPCを3.5リットルのV型6気筒ターボエンジンを積んだジャガー・XJR-11で戦っていたが、ル・マン24時間レースには前年まで使用しておりこの年もデイトナ24時間レースで優勝した実績もある7リットルV型12気筒エンジンを搭載したジャガー・XJR-12の使用を決め、2月には製作に取り掛かった[3]トム・ウォーキンショーはハイペースの潰し合いになっても4台のワークスマシンがあれば次の車両を上げることで9割以上の確率で勝てると計算していた[3]

ポルシェは、WSPC第2戦のモンツァからヨースト・レーシングが使用した3.2リットルエンジンをブルン・モータースポーツにも供給し、ロングテール車両での参戦を指示した[3]。このエンジンはヘッド回りも新設計とし、燃費と中速トルクの向上を主眼に設計されていた[3]。ヨースト・レーシングは4台のロングテール車両を投入しポルシェ最有力チームであった[3]ブルン・モータースポーツ16号車、クレマー・レーシングの2台、アルファレーシング45号車、伊太利屋43号車は直線が最大2kmになっていることからポルシェワークスの指示に反しショートテール車両を投入した[3]。特記すべきはバブル景気に沸く日本のチームが武富士[5]ケンウッド[5]トラスト[5]オムロン[5]ミズノ[5]と多数のポルシェ・962を使用しエントリーしたことである。

予選

6月13日の18時に公式予選が始まった[2]

NMEのマーク・ブランデル日産・R90CKで3分27秒02を出しポールポジションを取った[2][5]。これは前述の通り生沢徹の要請で1基だけ製作した予選用エンジンを搭載して走行したもので、過給圧を1.8と高く設定したとも[2][5]、幸か不幸かウェイストゲートバルブがうまく作動せず過給圧が想定以上に上がったとも言われ、推定出力は1,000PS[7]とも1,100馬力[2]ともいう。しかしNPTIやニスモのほとんどの者はこのエンジンの存在を知らされておらず、日産自動車内で深刻な対立を生んだ[2]。NMEとNPTIは元々仲が良くなかったがこの件で殴り合いの喧嘩になり、NME、NPTI、ニスモの順で予定されていたピットの順番を急遽NME、ニスモ、NPTIの順に変更しなければならない程であった[2]

ジャガーは7位、8位、9位、17位を占め、それなりに健闘したと言える結果[2]ではあったが、予選にこだわらず決勝に備えた[5]こともあり、日産自動車のパフォーマンスの前にほとんど存在感を持たなかった[2]

トヨタも抑え気味の走行で最高位は14位、3分38秒74であった[5]

マツダの最高位は22位、3分43秒04であった[5]


  1. ^ 『ルマン 伝統と日本チームの戦い』pp.228「資料2」は「151」。
  2. ^ 『ル・マン 偉大なる草レースの挑戦者たち』pp.299は「DNS」。
  3. ^ 『ル・マン 偉大なる草レースの挑戦者たち』pp.299は「-」。
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp bq br bs bt bu bv bw bx by bz ca cb cc cd ce cf cg ch ci cj ck cl cm cn co cp cq cr cs ct cu cv cw cx cy cz da db dc dd de df dg dh di dj dk dl dm dn do dp dq dr ds dt du dv dw dx dy dz ea eb ec ed ee ef 『ルマン 伝統と日本チームの戦い』pp.224-231「資料2」。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah 『ル・マン 偉大なる草レースの挑戦者たち』pp.175-246「祭りの決算」。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『Gr.Cとル・マン』pp.76-77「1990」。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp bq br bs bt bu bv bw bx by bz ca cb cc cd 『ル・マン 偉大なる草レースの挑戦者たち』pp.298-303。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 『ルマン 伝統と日本チームの戦い』pp.27-154「ルマン24時間レースの歴史」。
  6. ^ a b c d e f g h i j 『ルマン 伝統と日本チームの戦い』pp.155-220「ルマン24時間レース挑戦 日本チーム」。
  7. ^ a b 『Gr.Cとル・マン』pp.90-95。


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