1797年1月13日の海戦 歴史的背景

1797年1月13日の海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 05:58 UTC 版)

歴史的背景

1796年12月、フランス革命戦争の最中に、フランス軍がアイルランドへの侵入のためにブレストを発った。この1万8千人から成る遠征軍は、ユナイテッド・アイリッシュメン英語版と呼ばれる、アイルランドのナショナリストたちの秘密組織と合流し、アイルランド全土に暴動を起こす計画だった[1] 。この戦争によってイギリスがフランス第一共和政と和平協定を結ぶか、アイルランドを完全に失う危険を冒すか、いずれかの結果となることを、フランスは望んでいた[1]。海軍中将ジュスタン・ボナヴァンチュール・モラール・ド・ガレ英語版ラザール・オッシュ将軍、ユナイテッド・アイリッシュメンの指導者ウルフ・トーンに率いられた遠征軍は、17隻の戦列艦と27隻のその他の軍艦に分乗し、広い射程圏を持つ野砲騎兵隊、そして蜂起を目論むユナイテッド・アイリッシュメンのための軍需物資を積んでいた[2]

ブレスト出港

ジュスタン・ボナヴァンチュール・モラール・ド・ガレ

モラール・ド・ガレは12月15日から16日にかけての夜に、暗闇に紛れて、フランス海軍の軍港であるブレストから出港する予定でいた[3]。イギリスの海峡艦隊は封鎖のために、いつもはブレスト港の沖合に戦隊を駐留させていたが、冬の大西洋の荒天のため、指揮官で海軍少将ジョン・コルポイズは、ブレストから20海里(37キロ)のいつもの駐留地点でなく、北西40海里(74キロ)の場所まで戦隊を撤退させていた[3][4][5]。ブレストから見えるイギリスの艦は、海岸近くにいるサー・エドワード・ペリューのインディファティガブルとアマゾン、フィービー英語版レヴォリューショネア英語版[注釈 1]、そしてラガー英語版艦デューク・オブ・ヨークから成る戦隊のみだった。ペリューは、この戦争で初めてフランス艦を拿捕したイギリス人士官として、その名を知られていた。拿捕したのはフランスのフリゲート艦クレオパートル英語版だった。ペリューはその後、やはりフリゲート艦のポモーヌ英語版ヴィルジニー英語版をそれぞれ1794年1796年に拿捕し、やはり1796年の1月に、東インド会社の船ダットンが難破した際、乗員500人を救った[6]。こういった功績により、ペリューはまずナイトに叙せられ、それから準男爵となった。インディファティガブルはラジーで、イギリス海軍でも最も大きなフリゲート艦の1隻であり、メインデッキ英語版に24ポンド砲、船尾甲板に42ポンドカロネード砲をすえ、同等級のフランスのフリゲート艦よりも頑丈な装備をしていた[7]

エドワード・ペリュー

薄暗がりの中でフランス艦が出航するのを監視していたペリューは、すぐさまフィービーをコルポイズに、アマゾンをポーツマスの主力艦隊へ、それぞれ警告を持たせて派遣し、その後フランスの動きを混乱させるため、インディファティガブルでブレストに入港した[8]。モラール・ド・ガレは、湾内にいるイギリス艦は先発で、その後にもっと大型の艦が来ると思い込んでいたため、自軍の艦隊にはラ・ド・サン英語版を通過させようとした。この海峡は狭くて岩が多く、航路としては危険であり、ド・ガレはコルベット艦を臨時の灯台船として、海峡を通るフランスの主力艦隊に、青の照明をつけ、煙火を焚くことで灯台船の位置を知らせた[3]。ペリューはこの一部始終を観察しており、インディファティガブルをフランス艦隊の右に滑り込ませ、無作為にロケット弾を発射し、照明をつけた。このためフランス軍の士官は混乱し、フランス艦セディサン英語版がグランド・スティーヴネントの岩に衝突して沈没し、乗艦していた定員1300人のうち680人が死んだ[9]。この突然の事故により、混乱はさらに拡大し、ラ・ド・サンを艦隊が通過し終わったのは翌日の夜明けだった[8]。敵の監視の仕事が完了したペリューは、共にいた戦隊の残り1隻を連れてファルマスに向かい、海軍本部への報告書を腕木通信で送り、自艦インディファティガブルの修理をした[3]

アイルランド遠征の失敗

ジャン=バティスト・レイモン・ド・ラクロス

1796年12月から1797年の1月初めにかけて、フランス艦隊は何度も繰り返しアイルランドへの上陸を試みた。遠征の前半の頃、ド・ガレとオッシュが乗ったフリゲート艦フラテルニテ (艦船)英語版は、艦隊から離れたため、ミズンヘッド英語版での他艦との合流ができなかった。指揮官を欠いた状態であるため、フランソワ・ジョゼフ・ブーヴェ英語版提督とエマニュエル・ド・グルーシー将軍は、バントリー湾英語版から上陸しようとしたが、天候が荒れ模様で、いかなるかたちの上陸も不可能だった[10]。1週間以上もの間、嵐がやむのを待っていたフランス艦隊だったが、12月29日にブーヴェは侵入作戦を放棄した。しばらくの間、シャノン川河口から上陸しようと奮闘したものの、それもむなしく終わったため、散り散りになっていた艦隊に、ブレストへの帰還命令が出された[11]。この作戦と、その後の撤退とで11隻の艦が難破し、または拿捕され、何千もの兵士や水兵が犠牲になった[12]

1月13日には、艦隊の生存者の多くが、艦が破損した状態でのろのろとフランスへ戻って行った。海上には、ジャン=バティスト・レイモン・ド・ラクロス英語版准将が指揮する戦列艦ドロワ・ド・ロム1隻が残っていた。この艦の乗員は1300人を超えており、うち700人から800人は、ジャン・ジョゼフ・アマブル・ユンベール英語版将軍を始めとする陸軍将校と兵士だった[13]。バントリー湾からの撤退のさなかに、この艦は主力艦隊から分遣され、1隻だけでシャノン川河口に向かう途中だった[10] 。荒天のため、上陸がやはり不可能であることを認めたラクロスは、この作戦が失敗であったと悟り、艦のフランスへの帰還を命じて、戻る途中にイギリスの私掠船カンバーランドを拿捕した[14]


注釈

  1. ^ 本来フランス艦であるが、この時はイギリス海軍の艦となっているため、英語風に表記している。
  2. ^ いわゆる十字砲火という戦法は第一次大戦後とされており、ここでは比喩的表現と思われる。

出典

  1. ^ a b Pakenham, p. 24.
  2. ^ James, p. 5.
  3. ^ a b c d Henderson, p. 21
  4. ^ Woodman, p. 85
  5. ^ “Colpoys, Sir John”. Oxford Dictionary of National Biography, (subscription required). http://www.oxforddnb.com/view/article/5985 2008年10月16日閲覧。. 
  6. ^ a b c “Pellew, Edward”. Oxford Dictionary of National Biography, (subscription required). http://www.oxforddnb.com/view/article/21808 2008年10月16日閲覧。. 
  7. ^ Woodman, p. 65
  8. ^ a b Woodman, p. 84
  9. ^ James, p. 6.
  10. ^ a b Henderson, p. 22.
  11. ^ Regan, p. 89.
  12. ^ James, p. 10.
  13. ^ a b Parkinson, p. 177.
  14. ^ a b Woodman, p. 86.
  15. ^ a b James, p. 11.
  16. ^ a b Henderson, p. 23.
  17. ^ a b c Woodman, p. 87.
  18. ^ a b Gardiner, p. 159.
  19. ^ a b c d James, p. 12
  20. ^ a b Henderson, p. 24.
  21. ^ a b Woodman, p. 88.
  22. ^ Clowes, p. 303.
  23. ^ a b Henderson, p. 25.
  24. ^ James, p. 13.
  25. ^ a b Woodman, p. 89.
  26. ^ James, p. 16.
  27. ^ Parkinson, p. 178.
  28. ^ a b "No. 13972". The London Gazette (英語). 17 January 1797. p. 53. 2008年10月16日閲覧
  29. ^ a b “Reynolds, Robert Carthew”. Oxford Dictionary of National Biography, (subscription required). http://www.oxforddnb.com/view/article/23436 2008年10月16日閲覧。. 
  30. ^ a b James, p. 17.
  31. ^ a b c James, p. 18.
  32. ^ a b Henderson, p. 29.
  33. ^ Pipon in Tracy, p. 169.
  34. ^ a b c James, p. 19.
  35. ^ a b Pipon in Tracy, p. 170.
  36. ^ Clowes, p. 304.
  37. ^ James, p. 20.
  38. ^ James, pp. 15-19.
  39. ^ Jakez Cornou et Bruno Jonin, L'odyssée du vaisseau “Droits de l'homme” : L'expédition d'Irlande de 1796, éditions Dufa, January 1, 1988, p. 216
  40. ^ James, p. 15.
  41. ^ "No. 14089". The London Gazette (英語). 6 February 1798. p. 120. 2008年10月16日閲覧
  42. ^ Pakenham, p. 289.
  43. ^ "No. 20939". The London Gazette (英語). 26 January 1849. pp. 236–245.





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