1797年1月13日の海戦
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難破
ペリューはすぐに海岸から離れようとして、レイノルズに後に続くよう信号を送った。2隻は戦闘と悪天候とでかなりの損害を受けたが、座礁からは免れることができた。アマゾンは北へ去ったが、インディファティガブルは、ブルトン人の水先案内人が、南へ向かうように強く勧めた[18]。この陸地は当初は、ウェサン島だと思われていた。この島は停泊余地が多いため、戦略に適していた。しかし6時30分、空が白みはじめた頃、インディファティガブルの乗員が、南と東に荒波が立っているのを見て、艦がオーディエルヌ湾を一晩中漂っていたことに気がついた[26]。自分たちの状況を察したペリューは、インディファティガブルを西へ向け、逆風による危険から抜け出そうとした。壊れた艤装の修理が急がれたが、針路の変更には問題がなかった[27]。アマゾンの方は北に向かったため、インディファティガブルに比べて戦略を働かせるだけの余裕がなく、午前5時には砂州に垂直にぶつかった[28]。アマゾンを海に戻そうと乗員が努力したものの、失敗に終わり、レイノルズは、午前8時には艦を捨てる準備をするように命じた[29]。
ドロワ・ド・ロムはイギリス艦よりもっと損害が大きく、また陸地が発見された時には、かなり岸に接近していた。ラクロス指揮下の乗員たちが必死に艦を南に向けたため、フォアマストと斜檣が風の勢いで崩壊した。これで艦は実質操作できなくなり、ラクロスは、修理が終わるまで錨をおろして、艦をこの場にとどめておくように命令した。この努力はむなしかった、すべて、といっても2つきりの錨が、バントリー湾での艦をつなぎとめた際に失われ、予備の錨の綱がイギリスの砲撃で折れて、役立たなかった[30]。この最後の錨が使われたが、艦をつなぎとめておくことができず、午前7時(フランス側の表記)に、ドロワ・ド・ロムはプロゼヴェの町の近くの砂州に乗り上げた。これにより、残りのマストが折れ、ドロワ・ド・ロムは横倒しの状態になった[31]。
アマゾン
オーディエルヌ湾に日が差し始め、地元民が海岸に集まった。ドロワ・ド・ロムは、横倒しのまま、プロゼヴェの町とは正反対の方向に座礁していた。船体には波が砕け散っていた。その2海里(3.7キロ)北には、アマゾンが砂州の上に垂直に乗り上げていた。アマゾンの乗員たちは岸へたどり着こうとボートを下ろしており、その一方で、唯一海上にいるインディファティガブルは、11時に湾の南端にあるペンマーク・ロックスを11時に一周した[28]。アマゾンの艦上では、レイノルズが取り乱すことなしに、整然とボートを下ろさせ、また乗員すべてを安全に下ろすために、いかだを組み立てるように命令を出していた。この命令に従わないのは、わずかに6人だった。この6人はボートを盗んで、自分たちだけで岸にたどり着こうとしたが、流されてしまい、波で転覆して、6人はすべて溺れ死んだ。他のアマゾンの乗員たちは、前夜の戦闘で負傷した者も含めて、9時までに無事に岸に到着し、そこでフランス当局から捕囚された[32]。
ドロワ・ド・ロム
ドロワ・ド・ロムは、修復不能なほどに損害を受けていた。波が立て続けに、海に落ちた人々をさらに押し流し、ボートを下ろそうという破れかぶれな試みも、小型艇が波に流され、砕け波によって壊されたために実現できなかった。いかだが何艘か組み立てられ、一部のいかだが、艦のロープを支えにして岸に向かおうとしていたが、いかだが水につかってしまい、他のいかだに垂直な姿勢で乗っていたドロワ・ド・ロムの乗員は、荒海に投げ出されるのを防ぐため、ロープを切断せざるを得なくなった[31]。このいかだに乗った数人が海岸につき、この難破の最初の生存者となった。その次に、ロープを支えにしながら泳いで岸に着こうとした者たちは、溺れるか、海が荒れていて艦に戻されるかのいずれかだった。岸から援助するすべはなく、1月14日の日が暮れたが、大部分の乗員たちはまだ艦に残ったままだった。夜の間に、荒波が船尾に穴をあけ、船内の大部分が浸水した[31]。1月15日の朝、カンバーランドの9人のイギリス人捕虜を乗せた小型ボートがどうにかして着岸した。これを見て、ドロワ・ド・ロムから小型のいかだが続々と、上陸できるのではないかという期待のもとに下ろされた。しかしまた波がうねり狂ったため、このいかだで着岸できた者はいなかった[33]。
1月16日の朝には、ドロワ・ド・ロムの艦内は飢餓とパニックに見舞われ、天候が収まった間に、大型のいかだが負傷者、女2人、子供6人を乗せて下ろされた時、120人以上もの元気な男たちが、我先にこのいかだに飛び乗った。このためいかだはかなり定員を越えた状態となり、何分もたたないうちに、このいかだを大波が直撃して転覆させ、乗っていたものはすべて溺れた[34]。夕方になるころ、食物も新鮮な水もない生存者たちは、危険な難破船にいることが耐えられず、岸までどうにか泳ごうとし、少なくとも一人の士官がこれで溺死した。夜を通して、生存者たちは、艦の側面の、危険に見舞われる可能性が低い部分に集まって、脱水症状で死ぬのを避けるために、海水や、尿や、酢を小さな樽から飲んだ、その樽は、船倉から流れてきたものだった[35]。1月17日の朝、ついに嵐が収まり、フランスの小型ブリッグ船アロガントが到着した。このアロガントは、座礁する危険があるため、難破したドロワ・ド・ロムにはあまり近寄れなかったが、ボートを出して生存者を救おうとした[34]。同じ日、アロガントに加え、カッター船エイギュイユも到着した[36]。
ドロワ・ド・ロムの多くの生存者たちは、かなり弱っていたため、ボートに飛び乗るという危険を伴う行動を取れず、この試みでは多くのものが艦のへりから落ちて溺死した。それより多くの者たちは、小型ボートに乗るだけの空間がなく、1月17日に救出されたのは150人どまりだった[34] 。翌朝、ボートが艦に戻ったところ、生存者は140人だけになっていて、ほぼ同数のものが夜のうちに死んでいた。艦から救出された最後の人々には、ラクロスやユンベールも含まれていた[35]。ブレストに着いた救出者たちは、食物と衣類を与えられ、医師の治療を受けた。カンバーランドの捕虜たちはすべてイギリスに戻された、難破したドロワ・ド・ロムの生存者を救った見返りだった[37]。
注釈
出典
- ^ a b Pakenham, p. 24.
- ^ James, p. 5.
- ^ a b c d Henderson, p. 21
- ^ Woodman, p. 85
- ^ “Colpoys, Sir John”. Oxford Dictionary of National Biography, (subscription required) 2008年10月16日閲覧。.
- ^ a b c “Pellew, Edward”. Oxford Dictionary of National Biography, (subscription required) 2008年10月16日閲覧。.
- ^ Woodman, p. 65
- ^ a b Woodman, p. 84
- ^ James, p. 6.
- ^ a b Henderson, p. 22.
- ^ Regan, p. 89.
- ^ James, p. 10.
- ^ a b Parkinson, p. 177.
- ^ a b Woodman, p. 86.
- ^ a b James, p. 11.
- ^ a b Henderson, p. 23.
- ^ a b c Woodman, p. 87.
- ^ a b Gardiner, p. 159.
- ^ a b c d James, p. 12
- ^ a b Henderson, p. 24.
- ^ a b Woodman, p. 88.
- ^ Clowes, p. 303.
- ^ a b Henderson, p. 25.
- ^ James, p. 13.
- ^ a b Woodman, p. 89.
- ^ James, p. 16.
- ^ Parkinson, p. 178.
- ^ a b "No. 13972". The London Gazette (英語). 17 January 1797. p. 53. 2008年10月16日閲覧。
- ^ a b “Reynolds, Robert Carthew”. Oxford Dictionary of National Biography, (subscription required) 2008年10月16日閲覧。.
- ^ a b James, p. 17.
- ^ a b c James, p. 18.
- ^ a b Henderson, p. 29.
- ^ Pipon in Tracy, p. 169.
- ^ a b c James, p. 19.
- ^ a b Pipon in Tracy, p. 170.
- ^ Clowes, p. 304.
- ^ James, p. 20.
- ^ James, pp. 15-19.
- ^ Jakez Cornou et Bruno Jonin, L'odyssée du vaisseau “Droits de l'homme” : L'expédition d'Irlande de 1796, éditions Dufa, January 1, 1988, p. 216
- ^ James, p. 15.
- ^ "No. 14089". The London Gazette (英語). 6 February 1798. p. 120. 2008年10月16日閲覧。
- ^ Pakenham, p. 289.
- ^ "No. 20939". The London Gazette (英語). 26 January 1849. pp. 236–245.
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