1797年1月13日の海戦
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交戦
ペリューは、敵艦が自艦インディファティガブルよりもはるかに大型であること、8海里(15キロ)離れているアマゾンが、仮にこの場にやって来て共に戦ったとしても、敵艦との釣り合いが取れるほどの大きさでないことをわかっていた。とはいえ、ラクロスがドロワ・ド・ロムの下げ甲板の砲門を開いたら、大西洋の高くうねる波が押し寄せて、艦が沈没する危険があるだろうという推測も正しかった[18]。実際、ドロワ・ド・ロムは、戦闘中に下げ甲板の砲門を開くことが全く不可能であった。この砲門は、普通の砲門とは違って14インチ(36センチ)低めに設計されており、その結果、どういう開き方をしても海水が流れ込み、下げ甲板からの砲撃が全くできず、この艦からの砲撃力を半減させることになった[19]。ドロワ・ド・ロムにとって、使用可能な砲の数が減りはしたものの、大きさ、砲弾の重量、そして人力の点にかけてはラクロスの艦が有利だった。その状況も、トップマストが折れたことにより不利になった。このことでドロワ・ド・ロムは安定を欠き、相手への照準と舵取りとは敵艦よりも困難になり、強風の中で横揺れした[17]。ラクロスと士官たちが驚いたのは、インディファティガブルはドロワ・ド・ロムから去って行こうとせず、また、ラクロスが予想したような、長距離を風下に進むこともしなかった[19]。17時30分、インディファティガブルはむしろドロワ・ド・ロムの船尾に接近し、掃射を行った。ラクロスはこの攻撃に対抗して、上甲板の大砲から砲撃を始め、艦上の兵たちがそれに伴ってマスケット銃を発射した[13][20]。そこでペリューは、ドロワ・ド・ロムを引き離そうとして、船首を掃射した。ラクロスが応戦して、船首をインディファティガブルに激しく当てたからだ[17]。どちらの戦略もうまくいかなかった。ドロワ・ド・ロムはイギリス艦に掃射したものの、与えた損害はほとんどなく、またその砲弾は大西洋へと散らばったからである[19]。
インディファティガブルとドロワ・ド・ロムは互いの艦のあちこちに策を弄し、砲撃を交わした。18時45分より後になってアマゾンがやって来た。この交戦の間、ドロワ・ド・ロムの大砲の一部が燃え、甲板に多くいた乗員に多数の死傷者が出た[21]。アマゾンのレイノルズ艦長は、すべての帆に風を受けて、自分よりはるかに大きなドロワ・ド・ロムに接近し、ピストルの射程ほどにまで近寄ってから掃射した。ラクロスは、このもう1隻の敵艦を、自艦の西の方向で、インディファティガブルと鉢合わせするように仕向けた。そうすることによって、十字砲火に巻き込まれるのを避けられたからだった[20][注釈 2] 。戦闘は19時30分まで続き、その後アマゾンとインディファティガブルは、早急に修理をするために敵艦の先に出た[22]。20時30分には、この2隻は、自分たちよりもはるかに速度の遅いドロワ・ド・ロムのところへ戻り、その前を縫うように進み、繰り返し掃射を加えた[23]。ラクロスはだんだん捨て鉢になった。イギリス艦に船体をぶつけようとするも失敗し、横揺れが激しい艦では、小型の大砲をどうにか配置しようとするもうまくいかなかった。相手に確実に照準を合わすのが不可能だったのである[19]。
22時30分には、ドロワ・ド・ロムは多くの難事に直面していた。乗員に多くの死傷者が出ており、イギリス艦の砲撃によって、ミズンマストを失っていた。敵艦が、かなり打ちのめされた状態であるのに気付いたペリューとレイノルズは、敵艦の船尾の部分に近寄った。この2隻にもまだ、砲弾を受けてかなりの火の気があった、ドロワ・ド・ロムからまばらに反撃されたのだった[24]。ドロワ・ド・ロムは4000もの砲弾を使い切っており、ラクロスは敵艦に破裂弾を使わざるを得なくなった。強風の中での破裂弾は、実弾よりも効果が薄いことがわかったが、しかし敵艦2隻を確実に遠くへ追いやった[23]。フランス艦が殆どその場を動かないので、イギリスの2隻のフリゲート艦は、弧を描いて飛んでくる破裂弾の射程外にいることが可能で、必要な部分を修理したり、荒天のため位置がずれた大砲を配置しなおすことができた[25]。夜が明けるまで、3隻の手負いの艦は狭い範囲内での勝負に終始し、午前4時20分、インディファティガブルのジョージ・ベル海尉が突如として、風下2海里(3.7キロ)の地点に陸地が見えているのを発見した[25]。
注釈
出典
- ^ a b Pakenham, p. 24.
- ^ James, p. 5.
- ^ a b c d Henderson, p. 21
- ^ Woodman, p. 85
- ^ “Colpoys, Sir John”. Oxford Dictionary of National Biography, (subscription required) 2008年10月16日閲覧。.
- ^ a b c “Pellew, Edward”. Oxford Dictionary of National Biography, (subscription required) 2008年10月16日閲覧。.
- ^ Woodman, p. 65
- ^ a b Woodman, p. 84
- ^ James, p. 6.
- ^ a b Henderson, p. 22.
- ^ Regan, p. 89.
- ^ James, p. 10.
- ^ a b Parkinson, p. 177.
- ^ a b Woodman, p. 86.
- ^ a b James, p. 11.
- ^ a b Henderson, p. 23.
- ^ a b c Woodman, p. 87.
- ^ a b Gardiner, p. 159.
- ^ a b c d James, p. 12
- ^ a b Henderson, p. 24.
- ^ a b Woodman, p. 88.
- ^ Clowes, p. 303.
- ^ a b Henderson, p. 25.
- ^ James, p. 13.
- ^ a b Woodman, p. 89.
- ^ James, p. 16.
- ^ Parkinson, p. 178.
- ^ a b "No. 13972". The London Gazette (英語). 17 January 1797. p. 53. 2008年10月16日閲覧。
- ^ a b “Reynolds, Robert Carthew”. Oxford Dictionary of National Biography, (subscription required) 2008年10月16日閲覧。.
- ^ a b James, p. 17.
- ^ a b c James, p. 18.
- ^ a b Henderson, p. 29.
- ^ Pipon in Tracy, p. 169.
- ^ a b c James, p. 19.
- ^ a b Pipon in Tracy, p. 170.
- ^ Clowes, p. 304.
- ^ James, p. 20.
- ^ James, pp. 15-19.
- ^ Jakez Cornou et Bruno Jonin, L'odyssée du vaisseau “Droits de l'homme” : L'expédition d'Irlande de 1796, éditions Dufa, January 1, 1988, p. 216
- ^ James, p. 15.
- ^ "No. 14089". The London Gazette (英語). 6 February 1798. p. 120. 2008年10月16日閲覧。
- ^ Pakenham, p. 289.
- ^ "No. 20939". The London Gazette (英語). 26 January 1849. pp. 236–245.
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