モンゴル帝国 社会制度

モンゴル帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/05 06:24 UTC 版)

社会制度

モンゴル時代の華北投下領

モンゴル帝国は匈奴以来のモンゴリアの遊牧国家の伝統に従い、支配下の遊牧民を兵政一帯の社会制度に編成した。モンゴルにおける遊牧集団の基本的な単位は千人隊(千戸)といい、1000人程度の兵士を供出可能な遊牧集団を領する将軍や部族長がその長(千人隊長、千戸長)に任命された。

千人隊の中には100人程度の兵士を供出する百人隊(百戸)、百人隊の中には10人程度の兵士を供出する十人隊(十戸)が置かれ、それぞれの長にはその所属する千人隊長の近親の有力者が指名され、十人隊長以上の遊牧戦士がモンゴル帝国の支配者層である遊牧貴族(ノヤン)となる。千人隊長のうち有力なものは複数の千人隊を束ねる万人隊長(万戸)となり、戦時には方面軍の司令官職を務めた。

チンギス・カンとその弟たちの子孫は「黄金の氏族(アルタン・ウルク)」と呼ばれ、領民(ウルス)として分与された千人隊・百人隊・十人隊集団の上に君臨する上級領主階級となり、モンゴル皇帝であるカアンは大小様々なウルスのうち最も大きい部分をもつ盟主であった。カアンや王族たちの幕営はオルドと呼ばれ、有力な后妃ごとにオルドを持つ。それぞれのオルドにはゲルン・コウンゲルの民)と呼ばれる領民がおり、オルドの長である皇后が管理した。

また、モンゴル帝国では征服戦争の結果得た人口・土地はその地を征服した皇族・功臣の所有物とする慣習があり、このような皇族・功臣の所有する領民領地を当時の漢文史料では「投下(モンゴル語ではアイマク)」と呼んでいた。しかし、第4代皇帝モンケ死後の混乱の中で西方の投下はジョチ家、チャガタイ家、フレグ家によって占有され、東方の大元ウルス領でのみ投下制度は本来の形で存続した。そのため、投下に関する記録は東方の漢文史料が圧倒的に多く中国内地特有の制度とみられがちであるが、本来はモンゴル帝国の征服地全体に設定されたものである。




注釈

  1. ^ 例えば、第3代皇帝グユクが教皇インノケンティウス4世に宛てた書簡にはウイグル文字で「大モンゴル・ウルスの大海のごとくのカン(yeke mongγol ulus-un dalay-in qan)」、第5代皇帝クビライが日本に宛てた漢文書簡には「大蒙古国皇帝」とそれぞれ記されており、「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」がこの国家の公的な自称であったことが確認される[1][2]
  2. ^ モンゴル帝国の広大な版図は、モンゴル帝国とその後継国家が残した詳細な地図によって正確な形が現在まで伝えられている。とりわけ文宗トク・テムルの即位記念に編纂された『経世大典』「輿地図」はジョチ・ウルス、チャガタイ・ウルス、フレグ・ウルス、大元ウルスの4大ウルスの境界線を明確に示し、モンゴル系諸国家が西北は現ロシアのルーシ諸国(阿羅思)、西南はアナトリア半島からシリア、南は現アフガニスタンのガズニー(哥疾寧)・カーブル(何不里)まで及んでいたことを図示している[3]
  3. ^ モンゴル史研究者の杉山正明は『集史』や『元朝秘史』などの検討により、即位直後のチンギス・カンによって諸子諸弟に与えられた6つのウルスと、その中央に位置するチンギス自身の中央ウルス(コルン・ウルス)の連合体こそが「モンゴル帝国の原像」であると論じている。そして、このような「チンギス・カン一族による共同領有の原理=モンゴル帝国の分有支配体制」はモンゴル帝国の急速な膨張を経ても変わらず、以後のモンゴル的伝統を引く諸国家のプロトタイプとなったと指摘している(杉山 2004, p. 53-57)。
  4. ^ とりわけ、武宗カイシャンの治世にはウルス間の活発な交流が行われ、全モンゴルの一体性が蘇った。しかし、そのカイシャンが弟アユルバルワダのクーデターによって死去すると、ウルス間の交流は断絶することはなかったものの低調となっていった。このような変化について、杉山正明は「(カイシャンの死によって)モンゴル帝国の東西和合の大流は、それでも押しとどめられることはなかった。しかし、決してそれ以上は進展しなかった」と論じている(杉山1996B, p. 177-184)。
  5. ^ 杉山正明は15世紀以後を「ポスト・モンゴル時代」と称し、この時代特有の現象として「モンゴルほどではないが、モンゴル以前ではありえないような大帝国」、すなわち明朝/清朝、オスマン朝、ティムール朝/ムガル朝、ロシア帝国が相継いで誕生したこと、そしてその多くが20世紀に至るまで存続した「老帝国」であったことを指摘する。杉山はこれらの大帝国は直接・間接にモンゴル帝国の影響を受けた「モンゴルの遺産」であり、「陸」の時代から「海」の時代へ、中世から近現代への架橋の役割を果たしたと論じている(杉山1996B, p. 226-231)。
  6. ^ 古くは、漠然とチンギス・カンの即位時(1206年)に国号が定められたと考えられていたが、近年では諸史料の検討によりチンギス・カンの即位(1206年)と国号の制定(1211年)は別個に行われたと考えられている[8]。例えば、南宋人によって編纂された『建炎以来朝野雑記』『続編両朝綱目備要』などでは「蒙人既侵金国(モンゴルの金朝侵攻)」と「自号大蒙古国(大モンゴル国と号す)」が同時に行われたとし、元代に編纂された『至正金陵新志』『仏祖歴代通載』などでは「太祖皇帝即位(乙丑=1205)」と「大蒙古国号始建(辛未=1211)」を別個の事として記載している[9]。『元史』などには1210年にチンギス・カンが金朝に朝貢に赴いたとの記録があることから、実は1206年にチンギス・カンが即位して以後もモンゴル帝国は形式上金朝の属国であったと考えられ[10]、1211年の国号制定は金朝から名実ともに独立したことを内外に示すためのものであったと指摘されている[11]
  7. ^ モンケ時代に『元史』においては「阿母河等処行尚書省」(『元史』巻3・憲宗本紀 憲宗元年辛亥 夏六月条「(前略)以阿兒渾充阿母河等処行尚書省事、法合魯丁、匿只馬丁佐之。」)という漢語呼称で表現されているが、『世界征服者史』『集史』には「だれそれをどこそこの地域を委ねた」とのみ書かれているだけで、実際には「阿母河等処行尚書省」のような正式的な役所名はなかったと考えられている。そのためフレグのイラン入部以前にアムダリヤ川以西の地域の財政を統括したアルグン・アカのようなダルガチたちのトップとその役所は、便宜的に「イラン総督府」などと表現されている。
  8. ^ 東チャガタイ・ハン国モグーリスターン・ハン国となった。
  9. ^ 同時代のセルジューク朝サルグル族英語版にはカラマノール首長国英語版トルコ語: Karamanoğulları Beyliği)がある。サルグル族英語版の末裔はサラール族

出典

  1. ^ 川本 2013, p. 13-14.
  2. ^ 高田 2019, p. 100-102.
  3. ^ 宮 2007, p. 115-118.
  4. ^ Taagepera, Rein (September 1997). “Expansion and Contraction Patterns of Large Polities: Context for Russia”. International Studies Quarterly 41 (3): 492–502. doi:10.1111/0020-8833.00053. JSTOR 2600793. https://doi.org/10.1111/0020-8833.00053. 
  5. ^ 杉山1996B, p. 196-198.
  6. ^ 杉山1996A, p. 198-203.
  7. ^ Neil Pederson (2014). “Pluvials, droughts, the Mongol Empire, and modern Mongolia”. Proceedings of the National Academy of Sciences 111 (12): 4375–79. Bibcode2014PNAS..111.4375P. doi:10.1073/pnas.1318677111. PMC 3970536. PMID 24616521. https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3970536/. 
  8. ^ 中村 2021, p. 85-86.
  9. ^ 中村 2021, p. 86-88.
  10. ^ 中村 2021, p. 98-99.
  11. ^ 中村 2021, p. 100-101.
  12. ^ 海老澤哲雄 『グユクの教皇あてラテン語訳返書について』 2004年 … ラテン語版返書とペルシャ語版返書の日本語訳
  13. ^ 『モンゴル時代史研究』, p. 101-126, 「阿母河等処行尚書省」.
  14. ^ 元史·卷二十八·英宗二
  15. ^ 元史·卷二十九·泰定帝一
  16. ^ 元史·卷二百七·逆臣
  17. ^ 濱本真実『共生のイスラーム --ロシアの正教徒とムスリム』(イスラームを知る 5)山川出版社、2011年7月
  18. ^ Charlotte Schubert, "Y chromosomes reveal founding father", Nature Digest, 2005, p.6(邦題「Y 染色体は始祖を表す」)
  19. ^ 箭内亙「元朝怯薛考」『東洋学報』第6巻第3号、東洋文庫、1916年10月、368-412頁、CRID 1050001338853152256 
  20. ^ 『モンゴル時代史研究』, p. 24-26, 「チンギス・ハンの千戸制」.
  21. ^ 『モンゴル帝国と大元ウルス』, p. 28-61, モンゴル帝国の原像」.
  22. ^ Rashīd/Rawshan vol.1, p. 592-594.
  23. ^ 『モンゴル時代史研究』, p. 41-45, 「チンギス・ハンの軍制と部族制」.
  24. ^ 『モンゴル時代史研究』, p. 17-40, 「チンギス・ハンの千戸制」.
  25. ^ 『モンゴル帝国史』, p. 196.
  26. ^ 『モンゴル帝国史』, p. 198.
  27. ^ ガブリエル・ローナイ著(榊 優子 訳)『モンゴル軍のイギリス人使節 --キリスト教世界を売った男』(角川選書 262)角川書店、1995年7月
  28. ^ 杉山1996A, p. 52-54.
  29. ^ 若江賢三「蒙古襲来の伝聞を巡って:日蓮遺文の系年研究」『人文学論叢』第8号、松山 : 愛媛大学人文学会、2006年、67-77頁、CRID 1520853832191131648ISSN 13460331国立国会図書館書誌ID:8790070 
  30. ^ 杉山1996A, p. 53.
  31. ^ 宮 2007, p. 80-130.






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