エジプト新王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/16 17:49 UTC 版)
古代エジプトの王朝 |
---|
![]() |
王朝誕生前のエジプト |
エジプト初期王朝 |
第1 第2 |
エジプト古王国 |
第3 第4 第5 第6 |
エジプト第1中間期 |
第7 第8 第9 第10 |
エジプト中王国 |
第11 第12 |
エジプト第2中間期 |
第13 第14 第15 第16 第17 |
エジプト新王国 |
第18 第19 第20 |
エジプト第3中間期 |
第21(並立:アメン大司祭) 第22 第23 第24 第25 第26 |
エジプト末期王朝時代 |
第27 第28 第29 第30 第31 |
グレコ・ローマン時代 |
アレクサンドロス大王 |
プトレマイオス朝 |
アエギュプトゥス |
![]() |
エジプトの歴史 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
![]() このテンプレートはエジプト関連の一部である。 年代については諸説あり。 | ||||||||||
エジプト先王朝時代 pre–3100 BCE | ||||||||||
古代エジプト | ||||||||||
エジプト初期王朝時代 3100–2686 BCE | ||||||||||
エジプト古王国 2686–2181 BCE | ||||||||||
エジプト第1中間期 2181–2055 BCE | ||||||||||
エジプト中王国 2055–1795 BCE | ||||||||||
エジプト第2中間期 1795–1550 BCE | ||||||||||
エジプト新王国 1550–1069 BCE | ||||||||||
エジプト第3中間期 1069–664 BCE | ||||||||||
エジプト末期王朝 664–332 BCE | ||||||||||
古典古代 | ||||||||||
アケメネス朝エジプト 525–404 BCE, 343-332 BCE | ||||||||||
プトレマイオス朝 332–30 BCE | ||||||||||
アエギュプトゥス 30 BCE–641 CE | ||||||||||
サーサーン朝占領期 621–629 | ||||||||||
中世 | ||||||||||
ムスリムによるエジプト征服 641 | ||||||||||
ウマイヤ朝 641–750 | ||||||||||
アッバース朝 750–868, 905-935 | ||||||||||
トゥールーン朝 868–905 | ||||||||||
イフシード朝 935–969 | ||||||||||
ファーティマ朝 969–1171 | ||||||||||
アイユーブ朝 1171–1250 | ||||||||||
マムルーク朝 1250–1517 | ||||||||||
近世 | ||||||||||
オスマン帝国領エジプト 1517–1867 | ||||||||||
フランス占領期 1798–1801 | ||||||||||
ムハンマド・アリー朝 1805–1882 | ||||||||||
エジプト副王領 1867–1914 | ||||||||||
近代 | ||||||||||
イギリス統治期 1882–1953 | ||||||||||
エジプト・スルタン国 1914–1922 | ||||||||||
エジプト王国 1922–1953 | ||||||||||
エジプト共和国 1953–1958 | ||||||||||
アラブ連合共和国 1958–1971 | ||||||||||
エジプト・アラブ共和国 1971–現在 | ||||||||||
![]() |
- ^ 紀元前3世紀のエジプトの歴史家マネトの記録ではディオスポリスマグナと呼ばれている。これはゼウスの大都市の意であり、この都市がネウト・アメン(アメンの都市)と呼ばれたことに対応したものである。この都市は古くはヌエと呼ばれ、旧約聖書ではノと呼ばれている。ヌエとは大都市の意である。新王国時代にはワス、ワセト、ウェセ(権杖)とも呼ばれた。
- ^ 大ハリス・パピルス
- ^ この文書は、ラムセス4世の時代に、前王ラムセス3世と変わらない寄進を行うことを保障するため、ラムセス3時代の寄進を記録した寄進リストである。
- ^ 比率は書籍によって若干異なる。この数値は参考文献『世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント』の記述による。
- ^ 1アロウラは約2735平方メートル。
- ^ エジプト人はヌビアより南の住民を総称してネヘシと呼んだが、このネヘシを黒人と訳すことについては異論もある。参考文献『ナイルに沈む歴史 ヌビア人と古代遺跡』参照。
- ^ この商人は実際のところ大半が特権を与えられたシリア人を中心とする外国人に過ぎず、独立した商人層がエジプト人の間に確立することは無かった。
- ^ ただしこの債務奴隷は一定の契約に基づいて定められた期間奴隷となるもので終身奴隷ではない。
- ^ エジプト中王国の記事内、『ドゥアケティの教訓』などを参照。
- ^ 古代オリエントや東地中海においてシリア地方のセム系集団や印欧語族の集団が活発な移動を見せる一方、エジプト人は定住性が強くナイル川流域から離れることを嫌った。こうした傾向はナイル川が葬祭儀礼と結びついており、来世を迎えるためにはナイル川のそばに埋葬されなければならないというような観念にも見られ、異郷の地で親族が死んだ場合しばしば遺体の回収のしかたが問題となった。
- ^ 例えばラムセス3世によって定住地を与えられたリビア人や、シリア地方への居住を黙認されたペリシテ人など。
- ^ アメリカの学者、ジェームズ・ヘンリー・ブレステッドによる。
- ^ イアフメス1世は第15王朝(ヒクソス)の王女ヘルタを後宮に迎え、ヒクソスの地位を継承したことを主張した。
- ^ この時代にアムルと呼ばれた地域は、いわゆるアムル人の故地というわけではない。
- エジプト新王国のページへのリンク