アメリカ合衆国の独立 独立宣言 1776年

アメリカ合衆国の独立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/22 21:57 UTC 版)

独立宣言 1776年

トマス・ペインコモン・センス

1776年1月10日トマス・ペインは「コモン・センス」という題の政治冊子を発行し、イギリスとの問題を解決する唯一の手段は共和制であり、イギリスからの独立であると訴えた[22]

7月2日、第二次大陸会議においてアメリカ独立宣言が批准された。戦争は既に1775年4月に始まっており、独立宣言が1年以上後の1776年7月であった。この時点まで植民地は和平の道を模索したが、全ての邦が独立を選んだ[23]

第二次大陸会議は1777年11月に連合規約を採択した。これはアメリカでも最初の政府に関する規定であり、主権国家としての邦々の緩い連合という形を採った。連合規約の各邦による批准のために、さらに3年間以上が費やされた[24]

アメリカ独立戦争

イギリスの反撃 1776年-1777年

イギリス軍は1776年8月に反撃に出て、独立戦争の中でも最大の会戦となったロングアイランドの戦いで、巣立ちして間もない大陸軍を打ち破った。結果的にニューヨーク市を占領し、ワシントン将軍を捕まえる寸前までいった。イギリス軍はニューヨーク市を政治の中心とし軍事基地として1783年まで保持し続けた。続いてニュージャージーまで侵攻したが、ワシントンはデラウェア川を渡っての急襲で、トレントンの戦いプリンストンの戦いにおいてイギリス軍を破り、革命軍の息を吹き返させ、ニュージャージーも奪い返した。1777年、イギリス軍は2つの連携が取れていない遠征隊を発進させた。ニューヨーク市に本拠を置く軍隊はワシントンを破り、フィラデルフィアを陥れた。同時に侵攻したカナダに本拠を置く軍隊はニューイングランドを切り取ることを目指したが、進退に誤り、1777年10月にサラトガの戦いで降伏した。この勝利に気を強くしたフランスは、ベンジャミン・フランクリンが軍事同盟を画策していたことが功を奏し、1778年早くに公式にアメリカ側に付いて参戦した。後にスペインオランダもフランスと同盟を結び、イギリスは大きな同盟国も無いままに単独で戦争を行うことになった。ヨーロッパでは武装中立同盟が成立し、イギリスの貿易は海上封鎖などで危機に瀕した。アメリカの戦線はイギリスにとって数ある戦線の一つに過ぎなくなった[25]

イギリスは敵国の同盟で相対的に低下した軍事力を背景に、ヘンリー・クリントンがフィラデルフィアを明け渡しニューヨークの補強に向かった。ワシントンは撤退するイギリス軍を阻止せんとしてモンマスの戦いを起こしたが、これが北部では最後の会戦となった。この戦いは勝敗が付かず、イギリス軍はうまくニューヨーク市まで撤退できた。北部の戦線は手詰まり状態となり、戦略的な焦点は南部に移った[25]

イギリス軍の南部攻撃 1778年-1783年

ヨークタウンでのコーンウォリス将軍の降伏。実質的な終戦の切っ掛けとなった。

1778年12月遅く、イギリスはジョージアサバンナを占領し、北のサウスカロライナへ侵攻を開始した。ジョージアの北部はウィルクス軍におけるケトル・クリークの戦いで愛国者軍が勝利し、この期間も占領を免れた。イギリス軍はサウスカロライナのチャールストン占領に動き内陸部での砦のネットワークを作り上げた。この時点でイギリス軍は王党派の者達が英国旗の下に集まってくることを期待していた。しかし、十分な数の王党派が集まらないままに、イギリス軍はノースカロライナそしてバージニアへと進軍した。バージニアではイギリス艦隊と落ち合って救援されるものと考えていた。その期待していたイギリス艦隊はフランス艦隊に敗れた。ヨークタウンの戦いで身動きが取れなくなったイギリス軍は、アメリカ・フランス軍に包囲され、チャールズ・コーンウォリス将軍以下の全軍が1781年10月にワシントン軍に降伏した。イギリス王ジョージ3世は戦いの継続を望んだが、その支持者が議会での勢力を失い、戦争は実質的に終わった[25]1783年3月10日ケープカナベラル沖で大陸海軍のジョン・バリー船長の指揮する連合船隊が、大陸軍の給与を奪おうとしたHMSシビル以下3隻のイギリス艦船と戦ったのが最後の海戦であった。

反逆問題

1775年8月、イギリス王はアメリカの革命勢力をイギリスに対する反逆者であると宣言した。イギリス政府は当初アメリカ軍捕虜を普通の犯罪者として扱うことから始めた。捕虜は監獄に入れられ、反逆罪で裁く準備が進められた。ジャーメイン卿サンドウィッチ卿は特に熱心にこれを進めた。バンカーヒルの戦いで捕虜となった多くの者が疑いも無く絞首刑になるものと思われた。しかしイギリス政府は次段階、つまり反逆罪の裁判と刑の執行に進むことを躊躇った。アメリカには何万人にも及ぶ王党派がいて、アメリカの地で反逆罪で裁かれる危険性があった。イギリスはこれら王党派を使って戦いを展開する戦略を立てていた。1777年のサラトガでの降伏で、何千ものイギリス兵がアメリカ軍の捕虜となり人質という形になった。このためにアメリカ人捕虜は反逆罪で裁かれることはなくなり、監獄船という問題は残ったものの交戦国の戦闘員の権利に従って扱われることになった。1782年イギリス議会の立法により、反逆者ではなく戦争捕虜と公式に認められた。戦後、両軍は捕虜を解放した[26]

パリでの和平条約 1783年

1783年パリ条約と呼ばれるイギリスとの和平条約で、アメリカはミシシッピー川から東、五大湖の南の領土を獲得した。ただし、フロリダは含まれなかった。1783年9月3日、イギリスはスペインと別の条約を結び、フロリダをスペインに返還した。割譲された地域に住む先住民族は条約交渉の席におらず、アメリカに軍事的な敗北を喫するまで条約のことを認識していなかった。境界と負債の問題は1795年ジェイ条約まで解決されなかった[27]


  1. ^ Googleスカラー 2022, p. "American Independence Revolution".
  2. ^ Wood (1992); Greene & Pole (1994) ch 70
  3. ^ Greene & Pole (1994) ch 11
  4. ^ William S. Carpenter, "Taxation Without Representation" in Dictionary of American History, Volume 7 (1976); Miller (1943)
  5. ^ a b Miller (1943)
  6. ^ Charles W. Toth, Liberte, Egalite, Fraternite: The American Revolution & the European Response. (1989) p. 26.
  7. ^ Greene & Pole (1994) ch 9
  8. ^ Greene & Pole (1994) ch 15
  9. ^ Miller (1943) pp 335-92
  10. ^ Greene & Pole (1994) ch 22-24
  11. ^ Miller (1943) pp 353-76
  12. ^ Miller (1948) p. 87
  13. ^ Calhoon, Robert M. "Loyalism and neutrality" in Greene and Pole, The Blackwell Encyclopedia of the American Revolution (1991)
  14. ^ Nash, Lawrence (2005) Freedom Bound, in The Beaver: Canada's History Magazine.[1] Feb/Mar., 2007, by Canada's National History Society. pp. 16-23. ISSN 0005-7517
  15. ^ for example, see Hill (2007) [2]
  16. ^ Greene & Pole (1994) ch 20-22
  17. ^ Nash (2005); Resch (2006)
  18. ^ Berkin (2006); Greene & Pole (1994) ch 41
  19. ^ a b Nevins (1927); Greene & Pole (1994) ch 29
  20. ^ Nevins (1927)
  21. ^ Wood (1992)
  22. ^ Greene and Pole (1994) ch 26.
  23. ^ Greene and Pole (1994) ch 27.
  24. ^ Greene and Pole (1994) ch 30;
  25. ^ a b c Mackesy, 1992; Higginbotham (1983)
  26. ^ John C. Miller, Triumph of Freedom, 1775-1783 1948. Page 166.
  27. ^ Miller (1948), pp 616-48
  28. ^ Van Tine (1902)
  29. ^ Wood, Radicalism, p. 278-9
  30. ^ Palmer, (1959)
  31. ^ Frisians first to recognize USA! (After an article by Kerst Huisman, Leeuwarder Courant 29th Dec. 1999)”. 2006年11月11日閲覧。
  32. ^ Palmer, (1959); Greene & Pole (1994) ch 53-55
  33. ^ Palmer, (1959); Greene & Pole (1994) ch 49-52.
  34. ^ Enlightenment and Human Rights”. 2007年1月6日閲覧。
  35. ^ See The Cambridge History of Latin America - Google Book Search John Lynch, "The Origins of Spanish American Independence," in Cambridge History of Latin America Vol. 3 (1985), pp 45-46
  36. ^ Greene, Jack. “The American Revolution Section 25”. The American Historical Review. 2012年5月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年1月6日閲覧。
  37. ^ Wood (2003)
  38. ^ Jensen, The New Nation (1950) p 379





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