項羽 死後

項羽

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/19 09:51 UTC 版)

死後

項羽の墓

劉邦は項羽を殺した者に対して領土をかけていたので、項羽が死んだ時、王翳が頭をとり、その他の部分の死体に向かって兵士が群がり、死体を取り合い、殺し合う者が数十人にもなった。故に死体は五つに分かれた。劉邦はその五つの持ち主(楊喜・王翳・呂馬童・呂勝・楊武)に対して一つの領土を分割して渡した。漢軍の取った首級は8万人にのぼった[13][36]

項羽が死ぬと、楚の土地は抵抗をみせるが、灌嬰周勃ら派遣された漢の軍勢により平定されて漢に降伏する[32][37]。抵抗した中には、浙江を都にして王を名乗った壮息という人物もいた[38]。ただ、だけが降伏しなかったため、劉邦は全軍を率いて魯に赴き、項羽の首級を示すと、魯は降伏した。項羽が楚において魯公に封じられていたこともあり、最後まで抵抗した魯の地において、劉邦は魯公の礼を以て項羽を穀城に葬った。その際劉邦は、項羽の墓前で泣いてから去っていったという。

項一族のその後

項羽の死後、項伯(射陽侯)・項襄(桃侯)・項它(平皋侯)・玄武侯(名は不明)といった項一族は劉邦によって列侯に封じられ、劉姓を賜っている。

評価

司馬遷は『史記』の中で「項羽が勃興したことは何という速さだろう。項羽は土地も有していないのに、勢いに乗って民間の中から決起し、3年で秦を滅ぼし、天下を分けて王侯を封じて、覇王と名乗るまでになった。終わりこそ全うしなかったが、古今、いまだかつてなかった事業であった。(中略)(項羽は)自分のなすべきは覇王の業と考え、武力で天下を征服・管理しようとして、5年間で己の国を滅ぼし、自分自身も死んでしまった。それでも、死ぬ前にもまだ悟らず、自分を責めようとしなかった。『天が私を滅ぼすのだ。戦い方の過ちではない』と語ったのは、間違いの甚だしいものではないか」[39] と評価している。

京劇『覇王別姫』

項羽と同時代の人物であり、かつて項羽に仕え、後に劉邦についた韓信は、「項羽が叱咤すると、皆、恐れるが、すぐれた将に任せることができない。これは『匹夫の勇』である。また、人と会うと相手を敬い慈しみ、言葉づかいは穏やかで、病気の人には涙を流して食事を与えるが、手柄のある人に土地や爵位を授けることはできない。これは『婦人の仁』である」、「項羽が行き過ぎるところで、残滅されないことはなく、天下の人は大きな恨みを持ち、民衆はなつかず、ただその威と強さを恐れているだけである。覇王と名乗っているが、実は天下の人心を失っている」と評している[40]

同じくかつて項羽に仕え、劉邦についた陳平は、「項羽の人柄は人に対して謙虚で敬い愛しするため、高潔で礼を好む士が数多くその元に向かう。しかし、功績を立てて土地や爵位を与えることを惜しむため、士はなつくことはない」、「項羽は人を信じることができず、愛し任せるのは、一族か妻の親族だけである。優れた人物がいても用いることができない」と評している[41]

劉邦に仕えた随何は、「項羽は斉を討ち、自分で資材を背負って、兵士の先頭に立っている」と評している[42]

劉邦は、「私は張良・蕭何・韓信という三人の人傑をうまく用いて天下を得ることができたが、項羽はただ一人の范増を用いることができなかった。これが、項羽が私に敗北した理由である」と評している[43]

項羽の参謀として仕えた范増は、「他人にひどいことをすることに忍びない」と評している。

項羽は劉邦と対照的な性格とされ、それを示す逸話として項羽と劉邦がそれぞれ始皇帝の行幸に会った時の発言がよく取り上げられる。項羽は始皇帝の行列を見て「彼奴に取って代わってやるわ!」と言ったが、劉邦は「ああ、大丈夫たる者、ああならなくてはいかんな」と言ったと伝えられる[44]

『史記』の中で、項羽の事項は第7巻・項羽本紀を立てられている。なお、この項羽本紀は『史記』の中でも特に名文の誉れが高く、日本の『平家物語』における木曾義仲の最期を描いた場面は、項羽本紀に於ける項羽の死の描写に影響を受けているといわれている。

司馬遷が、項羽の伝記を本紀に立てたのは、後世に異論があり、司馬貞は『史記索隠』において、「項王は崛起して雄を一朝に争う。たとひ西楚を号すと雖も、竟(つい)に未だ天子の位を践まず、本紀と称すべからず」と論じている。これに対し、『史記会注考証』(を編纂した瀧川龜太郎)は、項羽の伝記は本紀に立てることを肯定する張照や馮景の論を引用して、二説を是として、項羽本紀を立てたことを妥当としている[45]

司馬遷は、項羽を歴代帝王の一人として認めたのではないが、『史記』の執筆者としては、当時の事情として、秦漢の間に項羽本紀の一遍を立てるのは、また当然と考えたのであろう[46]

項羽が、天下を取ったか否かは意見が分かれている[47] が、現時点では世界史にて西楚は歴代王朝には名を連ねていない。

近年の項羽評価としては、漢文学者の吉田賢抗は、「鴻門の会では俎上の鯉の如く遇した劉邦と、遂に所を換えて垓下の一戦で敗れ去ったのには、一掬の涙を禁じ得ない。彼がしばしば言った如く、彼の豪勇と戦略は比類で、はるかに劉邦にまさり、漢軍を窮地に逐いこみながら、再三長蛇を逸したのは、その智謀において一籌を輸したとみるべきだろうか」としている[46]

永田英正は、著書『項羽―秦帝国を打倒した剛力無双の英雄』において、「項羽は教養もあり、礼儀正しく、純情で正義感の強い男であったが、ひとたび腹を立て怒りを発すると自己を抑制することができず、残忍な行為にはしった」、「かれはまた気にいらないものは徹底的にしりぞけ、利を以て味方につけるという打算的な考えを持ちあわさず、さらには貴族の生まれからくるエリート意識が強烈で、すべて独断専行したために協力者を失い、民衆の心を失ってしまった」、「項羽の敗北は、いうなれば戦国武断主義の敗北であり、対する劉邦の勝利は新しい中国的合理主義の勝利であったとみることができる」と評している[48]

また、佐竹靖彦は著書『項羽』において、「皇帝劉邦に対する御前会議である『楚漢春秋』を根本史料とする『史記』は、項羽の敗北を導いたかれの性格的な弱さについて過剰な記述をのこしている」[49](ただし、同時に、「『史記』は中国史書のなかで、もっとも虚構の要素の少ない史書である」としている[50])、「歴史的に見たときに、項羽が果たした最大の功績は、この一千年にわたる西高東低の地政学的状況に終止符を打ったことだろう。(中略)東西の統合あるいは融合の形勢はいっそう深化するとともに、地政学的な重心もまたこれに対応して東遷した」[51]、「お互いに熱い心で結びついていた人びとが、やがて項羽から離れていき、かれが孤立したことは事実である。(中略)これらすべての問題の基礎にあるのは、弱冠24歳で蜂起した項羽の心に、楚国への愛、楚文化への愛、楚の民衆の愛のみがあって、これを周囲のさまざまな要素とのあいだに正しく位置づけることのできない狭さがあったという事実である」[52] としている。

項羽の短くも苛烈な生涯に多くの人々が魅了されてきたのも事実であり、京劇の「覇王別姫」は現在も人気の演目となっている。

参考文献


  1. ^ 『史記』項羽本紀などによる。『史記索隠』では「字は子羽」とする。
  2. ^ 以下、特に注釈がない部分は、『史記』項羽本紀による。
  3. ^ 年号は『史記』秦楚之際月表第四による。西暦でも表しているが、この時の暦は10月を年の初めにしているため、注意を要する。また、秦代では正月を端月とする。
  4. ^ 佐竹靖彦は著書『項羽』でこの称号を疑問視する。本来は「楚王」あるいは「大楚王」と名乗ったところを、劉邦陣営が楚を「西楚」と領土を狭め、王を「覇王」と暴力的な意味をわざと付けて呼んだのが記録に残ったとする。
  5. ^ 『史記』項羽本紀、「学書不成」異説として、雨森芳洲は「ここでいう書とは歴史書のことで、項羽は『歴史書なんか歴史上の人名がわかればよいのだ』と開き直ったのだ」という。通説では本文の通りで、滝川亀太郎も雨森の説を退けている。(『史記会注考証』)
  6. ^ 項羽の兵法は『漢書』藝文志に「項王一巻」とあり、後世に伝わったが、現存はしていない。(『史記会注考証』)
  7. ^ 何焯は「(『史記』黥布列伝によると)黥布の陣立てが、項羽の兵法に依っていることを見た劉邦はそのことを憎んだ」という文章を注釈として引用している。(『史記会注考証』)
  8. ^ 史記会注考証』の著者である滝川亀太郎は、「(私が)思うに、(項羽は)兵を統率し、陣を形勢するのを得意としていたがために、力戦することができ、敵を撃ち砕けた。しかし、権謀の策が足りず、後に(相手に)奔走させられて、疲れ果てたところを敵に乗じられて倒されてしまった。これが、ここでいう(項羽が)『兵法の概略を理解すると、それ以上は学ぼうとしなかった』という文の意味である」と論じている。(『史記会注考証』)
  9. ^ 司馬遷はも瞳が二つあったと伝えられることから、項羽は舜の子孫ではなかったかと疑っている。
  10. ^ この時の暦は10月を年の初めにしているため、注意を要する。以下、同じ。
  11. ^ 後9月は、顓頊暦における閏月
  12. ^ 佐竹靖彦は、「懐王の身辺に、どのような老将がいたのであろうか」と疑問を投げている。佐竹靖彦『項羽』146頁
  13. ^ a b c d e f g h 『史記』高祖本紀
  14. ^ 中国国際放送局の『『史記・項羽本紀』②~頭角を現す項羽~』によれば、この時の楚の兵力を10万、秦の兵力を30万だったとする。
  15. ^ 『史記』「黥布列伝」によれば、「項氏に生き埋めにされて殺された人は、数千数万人にのぼる」とされる。
  16. ^ 佐竹靖彦は項羽が怒った理由を、「劉邦が関中に王権を持つ王として、項羽を対等の諸侯と見なして、軍隊の侵入を阻んだ」ためとする。佐竹靖彦『項羽』192頁
  17. ^ 史記によれば、この時の項羽の兵力は40万、劉邦の兵力を10万だったとする。
  18. ^ 『史記』始皇本紀
  19. ^ この論客の名は『漢書』陳勝項羽伝と『資治通鑑』では「韓生」(『漢書』では、韓生は釜茹でではなく、項羽の命で斬られたと記されている)、『史記集解』では「蔡生」と記されている
  20. ^ 永田英正は、『(前略)(彭城は、)いくら要害といったところで、これを「金城千里」といわれた関中の地と比較すれば、まったく問題にならず、一望千里の平野のどまんなかに位置するこの城は、東西南北、四面から敵の侵入にさらされていた。まして天下に号令せんとするには、彭城の地はあまりにも東方に偏りすぎていた。項羽が関中を引き上げて彭城に都したことは、明らかに戦略上の失敗であった。』としている。永田英正『項羽―秦帝国を打倒した剛力無双の英雄』146頁
  21. ^ 永田英正は、『義帝(懐王)との約束に違反して劉邦を関中王にしなかったことも含め、論功行賞が不公平だった(中略)。項羽がこの論功行賞でとった一つの原則は、文字どおり軍功の有無ということ(中略)。項羽のこの原則は、いちおう筋道は立っていた。しかし問題はその判定の基準と恩賞の較差である。(中略)それは、あまりにも主観的であり、あまりにも利己的な立場から行われたために、全体として不公平の譏を免れることはできなかった。』としている。永田英正『項羽―秦帝国を打倒した剛力無双の英雄』144頁
  22. ^ 永田英正は、『すでに秦も滅び、自分(項羽)が天下の第一人者となったいまでは、かれの存在がしだいに目の上のこぶとなっていた。そこで封地を与えるという名目で、かれを遠い僻地へ隔離しようとしたのである。』、『秦を滅ぼしていらい、項羽にとって、義帝は煙たい存在であった。その義帝に反抗のそぶりがみえたと聞いて、かれ(項羽)は殺す決心をしたのだ』としている。永田英正『項羽―秦帝国を打倒した剛力無双の英雄』142・145頁
  23. ^ a b 『史記』黥布列伝
  24. ^ 永田英正は、『理由は何であれ、秦政権打倒、楚国再興という大義名分のためにおしいただいた盟主義帝である。その義帝を暗殺したことは、まったく弁解の余地のない不義な行為であった。項羽は道義上の責任を問われ、かれを攻撃する絶好の口実をみずからつくってしまったのである。道義心の強い項羽としては、これはとりかえしのつかぬ大きな失敗であった。』としている。永田英正『項羽―秦帝国を打倒した剛力無双の英雄』145頁
  25. ^ 佐竹靖彦は、彭城の戦い後の形勢において、劉邦は関中と河内郡河南郡に郡県制を行い、大きな国力を手にいれているのに対し、「項羽の側は、劉邦軍の彭城占領によって天下の主催者としての威望は傷つけられた」としている。佐竹靖彦『項羽』245頁
  26. ^ 『史記』陳丞相世家
  27. ^ このような事態が生じた原因として、佐竹靖彦は「項羽集団においては、目的合理性な官僚体制がまったく育っていなかった」ことを挙げている。佐竹靖彦『項羽』276頁
  28. ^ 佐竹靖彦は、「(楚は)国力としては(劉邦の漢に比べ)劣勢に立ちながらも、名将項羽に率いられ、高い戦意に支えられた楚軍は最初圧倒的に優勢であった」としている。佐竹靖彦『項羽』267頁
  29. ^ 佐竹靖彦は、「項羽楚軍の幕僚部と武将のあいだの関係も、うまくいっていなかった可能性がある。何よりも、項羽の懇切な命令が守られていないことに、楚軍の規律の崩壊が感じられる」としている。佐竹靖彦『項羽』302頁
  30. ^ 佐竹靖彦は、「この時期になると、楚国の軍事体制は、もっぱら項羽に率いられた中央軍の滎陽・成皋包囲を焦点として組み立てられており、予想外の事態にはきわめて脆弱な反応しか示しえない状態に落ち込んでいたのである」としている。佐竹靖彦『項羽』298頁
  31. ^ 楚漢戦争の後半は、『項羽本紀』と『高祖本紀』とにおいて、時系列が異なる。ここでは、項羽本紀に従う。藤田勝久は、「このあたりの経過は、『史記』の項羽本紀と高祖本紀に混乱があり、正確にたどるのは難しい」としている。藤田勝久『項羽と劉邦の時代』
  32. ^ a b 『史記』樊酈滕灌列伝
  33. ^ ただし、辛徳勇や佐竹靖彦らは垓下の戦いはなく、佐竹靖彦は『項羽』にて陳下における戦いで項羽は戦死したと主張している。佐竹靖彦『劉邦』487~492頁
  34. ^ 中国紙・北京新浪網の記事によれば、漢書項羽伝や項氏宗譜では夫人(妻)とするが、中国の学者・王立群は結婚していなかった、愛人に過ぎなかったとし、逆に寧業高は「正式に結婚していた」としているという。『專家駁於正:虞姬確有其人但不是正妻』(中国紙『北京新浪網』の記事)
  35. ^ 『史記』高祖本紀では、項羽が敗北して逃走したため、楚軍は大敗したものとする。
  36. ^ 佐竹靖彦は、「実際の戦闘は、大規模な正規軍を率いた灌嬰が東城を含む九江郡を掃討したときに、左右司馬各一人、卒万二千人(兵卒、12,000人)が降伏した。彼はさらに長江を渡って鄣郡、豫章郡、会稽郡を平定して、合計五十二県を得たということであろう。これらの戦役全体の斬首が八万であったということになる」としている。佐竹靖彦『項羽』311頁
  37. ^ 『史記』絳侯周勃世家
  38. ^ 『史記』高祖功臣侯者年表第六
  39. ^ 中国国際放送局の「『史記』「項羽本紀」⑤~英雄の末路~」に記述あり。「天が私を滅ぼすのだ」という項羽の負け惜しみについては歴代の学者がこぞって批判しており、漢の揚雄は「天ではなく(劉邦が組織した)集団の力に負けたのだ。項羽は最後までそれがわからなかったのだ」と批判している(『揚子法言』)。
  40. ^ 『史記』「淮陰侯列伝」
  41. ^ 『史記』「陳丞相世家」
  42. ^ 『史記』「黥布列伝」
  43. ^ 『史記』「高祖本紀」
  44. ^ 王鳴盛十七史商榷』劉項俱觀始皇
  45. ^ 新釈漢文大系』「史記二(本紀)」503頁
  46. ^ a b 『新釈漢文大系』「史記二(本紀)」503頁
  47. ^ 佐竹靖彦は『項羽』で項羽が天下を制したとするが、班固の『漢書』や渡邉義浩の『ビジュアル三国志3000人』(頁79)はこれを否定している。
  48. ^ 永田英正『項羽―秦帝国を打倒した剛力無双の英雄』240~241頁
  49. ^ 佐竹靖彦、『項羽』9頁
  50. ^ 佐竹靖彦、『項羽』348頁
  51. ^ 佐竹靖彦、『項羽』42~43頁
  52. ^ 佐竹靖彦、『項羽』330~331頁
  53. ^ 『作品について|項羽と劉邦』 このサイトの中で、項羽は呂布と同じく最強を誇るとされる。






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