葛西氏 歴史

葛西氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/11 05:24 UTC 版)

歴史

葛西氏初代の葛西清重は、秩父氏秩父平氏)一族の豊島氏当主豊島清元(清光)の三男で、下総国葛西御厨(東京都葛飾区葛西城を中心に、江戸川区墨田区などの伊勢神宮荘園)を所領とした。清元・清重父子は源頼朝の挙兵に従って平氏討伐に参加して御家人となり、清重は奥州合戦で武功を立て奥州藤原氏が滅んだ後、奥州総奉行に任じられ陸奥国(後の陸前国)に所領を得た。江戸時代の地誌では、奥州に入った清重は、奥州藤原氏の本拠地である平泉ではなく、石巻日和山に城を築いて本拠にしたとされる。だが、清重自身は奥州の安定をみてから鎌倉で幕府重臣として活躍した。この頃の葛西氏の正確な動性は伝わっておらず、石巻と鎌倉を往来する領国経営だったと推測される[要出典]

のちに本拠地を従来の石巻から登米郡寺池に移したが、その時期は諸説あって判然とせず鎌倉時代とする説、南北朝時代とする説 等がある[要出典]

室町時代から戦国時代初期にかけて、石巻に本拠を構える「石巻系葛西氏」、登米郡に本拠を構える「寺池系葛西氏」に分裂し内紛状態にあったという説もある[要出典]。その過程や経緯は、現在でもまったくもって不明であり、詳細については推測の域を出ない。事実としてはっきりしている事は、南北朝時代に勢威を拡大し、鎌倉時代から引き続き奥州の有力者としての地位を確保したということである。

戦国時代初期に葛西満信宇都宮氏広との争いで領地の拡張に成功[注釈 1]し、伊達氏と結ぶと、隣国の大崎氏と徹底して対立する。

しかし、この抗争は決着がつかず、また伊達氏庶子を養子として迎え入れたため、その介入と家臣団の混乱を招き、かえって葛西氏の勢力を衰退させた。 また、有力家臣である浜田氏の独立、浜田氏と熊谷氏(気仙沼熊谷党)との相克など、領国における豪族の統制もうまくいかないようになっていた。

第17代当主にあたる葛西晴信のときに豊臣秀吉小田原征伐に参陣しなかった事をとがめられ[注釈 2]改易され、慶長2年(1597年)晴信の死去で大名としての葛西氏は滅亡した。

葛西氏の滅亡については異説もあり、晴信は秀吉の奥州平定軍と果敢に戦い、戦死したとも伝わる[3]


注釈

  1. ^ 上記の分裂説の場合、この時に寺池系が葛西一族の統一を回復したのだとする[要出典]
  2. ^ 当時の伊達、葛西の両氏は「葛西は伊達家の家臣なのだから、伊達家が参陣すればそれでよく、葛西が参陣するのは陪臣の参陣となるから必要ない」という認識だった[要出典]
  3. ^ しかしそれらの系図自身が敵方の存在にまったくふれてないのは不審であり、歴代の名前のうち草書からの誤認や誤写の可能性のある組み合わせが散見されること等から、分裂してはおらず本来は一系の系図だったとする説もある[要出典]
  4. ^ なお、「朝」の字の由来について、『豊島宮城系図』では源実朝からの偏諱としている[5]

出典

  1. ^ a b c 太田 1934, p. 1440.
  2. ^ 太田 1934, p. 1441.
  3. ^ 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年9月、238頁。ISBN 4-404-01752-9 
  4. ^ 今野 1998, p. 78.
  5. ^ 今野 1998, p.90 脚注(60).
  6. ^ a b 今野 1998.
  7. ^ 紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」『中央史学』二、1979年。 


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