紫式部日記 内容

紫式部日記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/05 23:58 UTC 版)

内容

中宮彰子の出産が迫った1008年寛弘5年)秋から1010年(寛弘7年)正月にかけての諸事が書かれている。史書では明らかにされていない人々の生き生きとした行動がわかり、史料的価値もある。自作『源氏物語』に対しての世人の評判や、彰子の同僚女房であった和泉式部赤染衛門、中宮定子の女房であった清少納言らの人物評や自らの人生観について述べた消息文などもみられる。また、彰子の実父である藤原道長や、同母弟である藤原頼通藤原教通などの公卿についての消息も多く含む。

よく話題にされる部分では、和泉式部に対しては先輩として後輩の才能を評価しつつもその情事の奔放さに苦言を呈したり、先輩に当たる赤染衛門には後輩として尊敬の意を見せている。特に清少納言への評では「清少納言と言うのはとても偉そうに威張っている人である。さも頭が良いかのように装って漢字を書きまくっているけれども、その中身を見れば至らぬところが多い。他人より優れているように振舞いたがる人間は後々見劣りするであろう。(中略)そういう人間の行末が果たして良いものであろうか」とあって、実際に後の「古事談」に似た話(清少納言の住居が零落したさまになり、侮りを口にした通行人に瞬時に故事を持ち出して反撃した話)が記されている。

そして、清少納言の「枕草子」には人々のふるまいへの批判的な感想も多く、紫式部の亡くなった夫が人に批判されることもあって、恨まれていたと解釈されている。

本文の一部

寛弘5年11月、『源氏物語』の清書編集をしていた頃[注 3]の記述
見所もなきふるさとの木立を見るにも、ものむつかしう思ひ乱れて。年ごろ、つれづれにながめ明かし暮らしつつ、花鳥の色をも音をも、春秋に行き交ふ空のけしき、月の影、霜、雪を見て、「その時来にけり」とばかり思ひ分きつつ、いかにやいかにやとばかり、行く末の心細さはやる方なきものから、はかなき物語などにつけて、うち語らふ人、同じ心なるは、あはれに書き交はし...

見所もない実家の庭の木立ちを見るにつけても、なんとも気がふさぎ込んで思い乱れて、[注 4]長年所在ないままに物思いしながら日を明かし暮らしながら、花の色や鳥の音を見たり聞いたりするにつけても、季節の移り変わる空の様子や、月の光、霜、雪を見ても、ただその時節が来たのだなあと意識する程度で、わが身はいったいどうなるのだろうかと思うばかりで、行く末の心細さはどうしようもないものの、一方でとりとめもないわたしの源氏物語などについて、話を交わす人の中で、気持ちの通じ合う人とは、しみじみと手紙を書き交わし...(渋谷栄一[6]

消息文から。「日本紀の御局」と呼ばれた話
左衛門の内侍といふ人はべり。あやしうすずろによからず思ひけるも、え知りはべらぬ、心憂きしりう言の、多う聞こえはべりし。
内裏の上の、源氏の物語、人に読ませ給ひつつ、聞こし召しけるに、「この人は日本紀をこそ読みたるべけれ。真に才あるべし」と宣はせけるを、ふと推し量りに、「いみじうなむ才がる」と、殿上人などに言ひ散らして、「日本紀の御局」とぞつけたりける。いとをかしくぞはべる。この古里の女の前にてだに慎みはべるものを、さる所にて才賢し出ではべらむよ。

左衛門の内侍という人がいます。妙にわけもなくわたしのことを良くなく思っていたのを、知らないでいましたところ、嫌な陰口がたくさん聞こえてきました。

内裏の主上様が源氏物語を人にお読ませになりながらお聞きになっていた時に、「この人は、きっと日本紀を読んでいるに違いない。本当に学識があるようだ。」と、仰せになったのを、ふと当て推量に、「たいそう学識を鼻にかけている。」と殿上人などに言いふらして、「日本紀の御局」と渾名をつけたのだったが、とても滑稽なことです。わたしの実家の侍女の前でさえ包み隠していますのに、そのような宮中などでどうして学識をひけらかすことをしましょうか。(渋谷栄一訳)

消息文の結び
かく世の人言の上を思ひ思ひ、果てに閉じめはべれば、身を思ひ捨てぬ心の、さも深うはべるべきかな。何せむとにかはべらむ。

このように世間の人の口の端を心配しいしい、最後に書き結んでみますと、わが身を思い捨てられない気持ちが、こんなにも深くあるものなのですね。我ながら一体どうしたらよいというのでしょうか。 (中野幸一訳[7]

本文

いくつかの校訂書が出版されている。


注釈

  1. ^ 7月とはこの日記自体の記述でなく、道長の『御堂関白記』や藤原行成の『権記』による。
  2. ^ 寛弘5年の記事とすれば、なぜこの部に収録されたのか、多くの説がある。萩谷によれば、道長の求愛という忘れがたい思い出を、目立たぬようにすべりこませたのではと指摘する。
  3. ^ この時どこまで源氏物語が完成されていたか。最低「若菜」の前までは書かれていた[4]、または「幻」までは書かれていた[5]という推定が多い。
  4. ^ 萩谷や中野の訳ではここに「夫の死後」を補う。

出典

  1. ^ e国宝 - 紫式部日記絵巻断簡”. emuseum.nich.go.jp. 2023年8月29日閲覧。
  2. ^ 第13回 紫式部日記”. 京都新聞 (2018年10月25日). 2021年1月10日閲覧。
  3. ^ 萩谷朴『紫式部日記全注釈』(角川書店、1973年)
  4. ^ 白方勝『紫式部日記臆説』(風間書房、1986年)
  5. ^ 鬼束隆昭「『紫式部日記』と源氏物語」(石原昭平ほか編『女流日記文学講座第3巻 和泉式部日記 紫式部日記』勉誠社、1991年)
  6. ^ 渋谷栄一 源氏物語の世界
  7. ^ 中野幸一『正訳紫式部日記』(勉誠出版、2018年)


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