竹一船団 結果

竹一船団

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 16:20 UTC 版)

結果

竹一船団への攻撃は、第32師団と第35師団の戦力を大きく削いだ。第32師団の歩兵は9個大隊が5個大隊に、砲兵は4個大隊が1個大隊半に減った[32][74]。すなわち、第32師団の戦力は歩兵2個連隊(1個大隊欠)、第35師団は歩兵4個大隊基幹(ただし、3個大隊はパラオやセントアンドレウ諸島配備)になった[3]。第35師団の砲兵は、ほぼ壊滅状態であった[32]

竹一船団の壊滅は、日本の指導者たちに、もはや西部ニューギニアへの増援は不可能だということを知らしめた[3]第2方面軍司令官の阿南惟幾大将は、船団の残存船で第35師団を予定通りニューギニアへ輸送するよう要望していたが、大本営はこれを受け入れず、既述のようにハルマヘラまでで輸送は中止された[10]。竹一船団の失敗は、絶対国防圏の修正にもつながった[10]。 「第一吉田丸」遭難を知った大本営は、5月2日に絶対国防圏の前縁拠点だったサルミ、及びビアク島を絶対確保の対象から除外し持久戦地区へと格下げした[75][76]。その後も被害が続出したため、大本営海軍部はマノクワリへの護衛輸送は困難との見解を表明し、5月9日、マノクワリ及びヘルビング湾一帯も持久戦地区へ格下げが決まった[55][77]。ニューギニア方面での新たな絶対防衛戦はソロンとハルマヘラ島を結ぶ線へと後退することになった[78][79]。これは、3月の計画に比べて950 km 以上の戦略的撤退であった[80]。阿南第2方面軍司令官はこの決定にも反発し、中央の意向に関わらずヘルビング湾を死守すべき旨の方面軍命令(輝参電第306号)を5月12日に発するなど[81]、大本営や南方軍との深刻な対立を生じた[82]

6月、竹一船団の行動がなぜ探知されたのかを調査するため日本海軍の参謀たちがマニラへ派遣された。彼らは「暗号解読はされていない」と信じており、原因は他に求められた。代わりに「原因」として挙げられた事情としては、通信量増加により船団の行動が察知されたこと、マニラ所在の士官の一人が偶発的に情報漏洩してしまったこと、マニラ港湾労働者に潜入したスパイが船団の編制や目的地などを通報していたことなどがある[71]。最終的に、スパイによる通報が原因であると結論付けられてしまい、日本の軍事暗号が変更されることは無かった[83]

竹一船団後も、増援部隊や軍需物資の輸送のため、ハルマヘラ島までの竹輸送は続けられた[84]。竹二船団(別名:H25船団。輸送船8隻・護衛艦3隻)は5月15日にハルマヘラ島ワシレ着、竹四船団(別名:H27船団。輸送船9隻・護衛艦5隻)は6月5日にワシレ着、竹五船団(別名:H28船団。第10派遣隊乗船)は6月13日にハルマヘラ島ガレラを経由してワシレ着と、損害無く到着できた例が多い[85]。しかし、5月19日にセブ島を発した竹三船団(別名:H26船団。輸送船9隻・護衛艦4隻)は、5月22日と23日にアメリカ潜水艦「レイ」、「セロ」の攻撃を受け、「天平丸」など輸送船2隻が沈没し1隻が損傷している[86]

竹一船団で運ばれた第32師団と第35師団は、その後にアメリカ陸軍と交戦することになった。第35師団は、5月にハルマヘラからソロンへと海軍艦艇で進出した[80]。同師団のうちパラオを経由した別動の1個連隊も4月にニューギニアへと無事に到着できている[87]。第35師団は、ビアク島の戦いサンサポールの戦いに隷下部隊が参加したが敗れ、主力はフォーヘルコップ半島(現ドベライ半島)を守備して敵中に孤立したまま終戦を迎えた[88]。第32師団のほうは、そのままハルマヘラ島の駐留部隊となった[80]。隣島のモロタイ島にアメリカ軍が上陸すると、1944年(昭和19年)9月から10月にかけて多くの部隊を逆上陸させて反撃を試みたが、大損害を被る結果に終わった(モロタイ島の戦い[89]

1944年の5月末から6月には再びのニューギニア方面への輸送作戦である渾作戦が行われたが、全て失敗した。


注釈

  1. ^ 戦史叢書『大本営陸軍部〈8〉』では歩兵第210連隊2573名戦死〈聯隊長含め〉・751名救助[4]とする。
  2. ^ 戦史叢書『南西方面海軍作戦』では2,155名戦死・生存者751名[49]と記載する
  3. ^ a b アメリカ海軍公式年表(The Offiicial Chronology of the US Navy in World War II)では、「Wales-Maru」を損傷させたとある。駒宮真七郎によれば、4月29日高雄発マニラ行きのタマ17船団に「うゑいるず丸」が所属しているが、それ以前の行動は同書に記載がない[54]
  4. ^ a b c 戦史叢書『海上護衛戦』によれば、ほかに船名不明輸送船1隻がある。また、護衛艦艇は駆逐艦3隻と第38号駆潜艇のほか、急設網艦蒼鷹と第37号駆潜艇の計6隻だとする[33]

出典

  1. ^ Parillo (1993), p. 140
  2. ^ a b c d e Blair (2001), p. 622
  3. ^ a b c d e f g h 戦史叢書75巻、422-423頁「竹一船団の遭難と西部ニューギニア防備対策」
  4. ^ a b c d e f g h 戦史叢書75巻、354-356頁「西部カロリン及び豪北方面陸軍兵力展開状況」
  5. ^ a b 戦史叢書102巻、403頁「竹輸送」
  6. ^ a b c d e f 戦史叢書54巻、401頁「六、竹船団の遭難」
  7. ^ a b 戦史叢書75巻、316-318頁「第三十二、第三十五師団等の輸送 ― 竹輸送」
  8. ^ a b c 戦史叢書75巻、348-350頁「西部ニューギニア方面防備兵力の再検討」
  9. ^ a b c d 戦史叢書102巻、227頁「昭和19年(1944年)4月21日」
  10. ^ a b c 戦史叢書75巻、423-429頁「西部ニューギニア確保要域再度の後退」
  11. ^ Willoughby (1966), p. 250
  12. ^ 戦史叢書75巻、203-205頁「第三十五師団の輸送と亀地区への派遣先変更」
  13. ^ a b 戦史叢書75巻、273-274頁「各方面の戦局」
  14. ^ a b 戦史叢書102巻、406頁「松輸送」
  15. ^ 戦史叢書『海上護衛戦』、357頁。
  16. ^ Willoughby (1966), pp. 251–252
  17. ^ 戦史叢書75巻、201-203頁「第十四師団派遣先のマリアナへの変更」
  18. ^ Willoughby (1966), pp. 257–258 and p. 272
  19. ^ 戦史叢書75巻、236-278頁「ホランジア空襲」
  20. ^ 戦史叢書102巻、223-224頁「昭和19年(1944年)3月30日」
  21. ^ 戦史叢書75巻、238-241頁「パラオ空襲」
  22. ^ 戦史叢書75巻242-245頁「ホランジア及びパラオ空襲の影響と古賀聯合艦隊司令長官の戦死」
  23. ^ 戦史叢書102巻、225頁「昭和19年(1944年)4月4日」
  24. ^ 戦史叢書75巻、312-316頁「三角地帯の戦備」
  25. ^ 戦史叢書75巻、303-304頁「飯村参謀総長着任ころまでの全般状況」
  26. ^ 戦史叢書『豪北方面陸軍作戦』、326頁、340頁。
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  28. ^ a b 戦史叢書『豪北方面陸軍作戦』、371頁。
  29. ^ Willoughby (1966), p. 272
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  31. ^ Smith (1953), p. 459
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  33. ^ a b 戦史叢書『海上護衛戦』、373頁。
  34. ^ Parillo (1993), pp. 89–90
  35. ^ Parillo (1993), pp. 133–134
  36. ^ 大井(2001年)、184頁。
  37. ^ Parillo (1993), p. 137
  38. ^ Wise et al (2003), p. 46
  39. ^ Morison (2001), p. 20
  40. ^ a b 大井(2001年)、225頁。
  41. ^ Parillo (1993), pp. 137–139
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  43. ^ Parillo (1993), pp. 135–136
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  45. ^ Willoughby (1966), pp. 272–273
  46. ^ a b 占守電探室 2012, p. 196.
  47. ^ 戦史叢書79巻、419-421頁〔 海上交通保護の実態 〕
  48. ^ a b c d 戦史叢書『海上護衛戦』、372-373頁。
  49. ^ a b c d e 戦史叢書54巻、401頁「第一吉田丸の喪失」
  50. ^ Parillo (1993), p. 139
  51. ^ a b Drea (1992), p. 129
  52. ^ 戦史叢書102巻、228頁「昭和19年(1944年)4月26日」
  53. ^ 占守電探室 2012, p. 197.
  54. ^ 駒宮(1987年)、168頁。
  55. ^ a b c d e f g 戦史叢書54巻、401-402頁「亞丁丸以下三隻を喪失」
  56. ^ a b 戦史叢書102巻、230頁「昭和19年(1944年)5月6日」「竹1船団(第32・第35師団輸送の9隻)、メナド北方140粁で敵潜水艦により3隻撃沈される」
  57. ^ a b 『第一〇四号哨戒艇戦闘詳報 自昭和十九年五月六日 至同五月七日』 アジア歴史資料センター(JACAR) Ref.C08030633200 (画像1-14)
  58. ^ 占守電探室 2012, p. 198.
  59. ^ Drea (1992), p. 130
  60. ^ a b 五月雨出撃す 2010, p. 273.
  61. ^ 占守電探室 2012, pp. 199–200.
  62. ^ a b c Blair (2001), p. 623
  63. ^ Parillo (1993), p. 141
  64. ^ 戦史叢書『西部ニューギニア方面陸軍航空作戦』、341頁。
  65. ^ 俳優 池邉良が乗船していた。
  66. ^ 五月雨出撃す 2010, p. 274「五月六日(航海中)」
  67. ^ a b 駒宮(1987年)、164頁。
  68. ^ a b 五月雨出撃す 2010, p. 275.
  69. ^ a b 五月雨出撃す 2010, p. 276.
  70. ^ 戦史叢書102巻、231頁「昭和19年(1944年)5月9日」
  71. ^ a b c 戦史叢書54巻、402-403頁「被害の原因」
  72. ^ 戦史叢書102巻、233頁「昭和19年(1944年)5月21日」
  73. ^ 戦史叢書『海上護衛戦』、374頁。
  74. ^ Madej (1981), p. 60
  75. ^ 戦史叢書102巻、229頁「昭和19年(1944年)5月2日」
  76. ^ 戦史叢書『豪北方面陸軍作戦』、411頁。
  77. ^ 戦史叢書102巻、230-231頁「昭和19年(1944年)5月9日」
  78. ^ 戦史叢書『豪北方面陸軍作戦』、435頁。
  79. ^ Willoughby (1966), p. 274
  80. ^ a b c Smith (1953), p. 233
  81. ^ 戦史叢書102巻、231頁「昭和19年(1944年)5月12日」
  82. ^ 戦史叢書『豪北方面陸軍作戦』、442-443頁。
  83. ^ Drea (1992), pp. 130–131
  84. ^ 戦史叢書75巻、436-438頁「六 太平洋、豪北方面陸軍部隊展開促進」
  85. ^ 戦史叢書『西部ニューギニア方面陸軍航空作戦』、381頁、426頁、444頁。
  86. ^ 戦史叢書『西部ニューギニア方面陸軍航空作戦』、388-389頁。
  87. ^ Smith (1953), p. 460
  88. ^ Smith (1953), p. 263, pp. 443–444 and p. 449
  89. ^ Willoughby (1966), pp. 348–352


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