神理教 神理教の概要

神理教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/09 10:19 UTC 版)

神理教
神理教の教紋。雄略天皇より賜ったとされる日月五星の御紋章[1]
神理教本殿
設立 1884年(明治17年)
設立者 佐野経彦(巫部経彦)
種類 宗教法人
本部 福岡県北九州市小倉南区徳力5丁目10番8号
座標 北緯33度49分33.5秒 東経130度51分52.9秒 / 北緯33.825972度 東経130.864694度 / 33.825972; 130.864694座標: 北緯33度49分33.5秒 東経130度51分52.9秒 / 北緯33.825972度 東経130.864694度 / 33.825972; 130.864694
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概要

神理教の起源は饒速日命(ニギハヤヒノミコト)からはじまる家系図の巫部系譜[2]にあるとされる[3]。教祖である経彦が、家伝や国学をもとに1880年(明治13年)に神道事務局より神理教会の開設の認可を受ける。1884年(明治17年)に神理教となる。御嶽教に所属したのち、1894年(明治27年)に教派神道の一派として特立公認される。1952年(昭和27年)6月14日より宗教法人法による宗教法人となる[4]

天之御中主神から天照皇太神までの十八柱神を天在諸神(あめにますもろもろのかみ)として奉斎し、そこから説かれる教理は古くから伝わる教えであるとされる。神理教は、文化庁の分類によれば教派神道の中でも復古神道系に分類される[5]。復古神道系のほかには、富士信仰御嶽信仰のような霊峰の崇敬から発展した山岳信仰系や、教祖の宗教体験と教えに比重を置く純教祖系があげられる[5]

九州を中心に信者を増やし明治時代には全国に展開した。経彦は宮家や神道家との交流、また各地で積極的に教理を説き、教勢は全国的に展開した。

巫部神道

経彦の父である佐野経勝も神道家であり、経彦は家伝の書と家系図を受け継ぎ、神道を興すという意を継承している[6]。家系図は、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)からはじまり、経彦で77代目にあたるとされる[6]

経彦の『神理教由来記』[7]によれば、以下のような歴史があった。7代目の伊香色雄命が天津言霊(あまつことだま)を明らかにし、吉凶禍福の起こる理を物述べた。9代目の膽昨宿禰(ふくひのすくね)から物部の姓を名乗った。10代目の物部五十言宿禰(いそことのすくね)は五十音の言霊を明らかにし神術に通じ、神字神書を創作したとされる。12代目の物部以美伎(いみき)が、天在諸神をまつり神符を人々に授けて病気を治すと巫部神道の土台ができていった。八十楯(やとたて)の子である兄奇(えくし)は、雄略天皇の病を神術にて治し、巫部の姓を賜り、これが『姓名録』に豊国奇巫(くしかんなぎ)とあるように、豊国における巫部の姓のはじまりとなった。31代目、連麿が家伝の書を書き改め子孫に受け継ぎ、以降の子孫は神主も多く、妖魔や異賊を退治する祈祷、病を治す祈祷を行った。途中、巫部は佐野へ改称したが以前と同じように栄えており、慶安時代にはキリシタン禁制のもとで、相伝された物を没収され調査されたが、ことごとく返却された。父である佐野右七経勝(つねかつ)による巫部の教えを再興するという志を受け継ぎ、佐野経彦は、明治時代に入って布教の制度が大きくなり、神理教会を設立するに至った。

巫部系譜

1.饒速日命、2.宇麻志麻知命、3.彦湯支命、4.出雲醜大臣命、5.三見宿称命、6.欝色雄命、7.伊香色雄命、8.十市根命、9.物部膽宿称、10.物部五十琴宿称連公、11.物部伊苣弗連公、12.物部伊美伎連、13.物部奴疑称、14.物部大長谷、15.物部八十楯、16.巫部兄久志宿称、17.巫部宿称大久志、18.巫部久志宇羅、19.巫部伊智宿称、20.巫部速ト宿称、21.巫部大正人、22.巫部大楯、23.巫部言宇羅、24.巫部五十串別、25.巫部朝倉別、26.巫部言立、27.巫部伎与良、28.巫部真人、29.巫部正人、30.巫部小久良麿、31.巫部連麿、32.巫部高石麿、33.巫部龍王麿、34.巫部雄麿、35.巫部金木麿、36.巫部春日麿、37.巫部菊王麿、38.巫部真龍麿、39.巫部真滝、40巫部真圀、41.巫部清圀、42.巫部太郎清氏、43.巫部兵衛尉清根、44.巫部宿称清水、45.巫部三郎清名、46.巫部太郎丸盛名、47.巫部小太郎盛義、48.巫部右衛門介盛門、49.右京介盛平、50.左馬介巫部盛直、51.太郎太夫高光、52.修理太夫高成、53.左馬介巫部高樹、54.大宮司右京介高任、55.左平衛介高重、56.右京介巫部重興、57.大巫正六位大炊介重代、58.左京太夫巫司重年、59.黒頭重樹、60.左馬介巫部重氏、61.左馬介巫部重道、62.右京大巫氏盛、63.左馬大巫重威、64.佐野左衛門重足、65.左京常重、66.左馬、67.徳力権四郎重家、68.徳力左衛門重考、69.佐野仁左衛門重継、70.佐野與左衛門巫部経直、71.三右衛門巫部経之、72.佐野六右衛経隆、73.佐野長三郎経長、74.佐野文七常峯、75.佐野新蔵経嶽、76.佐野右経勝、77.佐野経彦[3]


  1. ^ 神理教の大教殿前”. 神理教. 2012年8月20日閲覧。
  2. ^ 井上順孝 1991, p. 226.
  3. ^ a b 井上順孝 1991, pp. 150–151.
  4. ^ a b c d 井上順孝ほか編 1996, p. 134.
  5. ^ a b 文化庁編さん 2011, pp. 5–6.
  6. ^ a b 井上順孝 1991, pp. 150–155.
  7. ^ 佐野経彦『神理教由来記』神理教本院、1894年。 
  8. ^ 井上順孝 1991, p. 137.
  9. ^ 井上順孝 1991, pp. 137–138.
  10. ^ a b 井上順孝 1991, p. 139.
  11. ^ 神理教本院 1940, pp. 46–47.
  12. ^ 神理教本院 1940, p. 47.
  13. ^ a b 佐野経彦『本教神理図解』
  14. ^ 佐野経彦 1930, p. 4.
  15. ^ 井上順孝 1991, p. 162.
  16. ^ a b 井上順孝 1991, pp. 179–180.
  17. ^ 井上順孝 1991, pp. 164、182-186.
  18. ^ 神理教の大元稲荷神社”. 神理教. 2012年9月20日閲覧。
  19. ^ a b 井上順孝 1991, p. 140.
  20. ^ 井上順孝 1991, p. 141.
  21. ^ 井上順孝ほか編 1996, p. 457.
  22. ^ 神理教本院 1940, p. 50.
  23. ^ 神理教本院 1940, p. 51.
  24. ^ a b c 井上順孝 1991, p. 183.
  25. ^ 向谷匡史 1995.
  26. ^ a b 井上順孝 1991, pp. 214–220.
  27. ^ 井上順孝 1991, p. 229.
  28. ^ 井上順孝 1991, pp. 214–215.
  29. ^ 井上順孝 1991, p. 221.
  30. ^ a b c d e f g h 井上順孝 2003.
  31. ^ a b c d e f g 井上順孝 2008.
  32. ^ a b c d 井上順孝 2006.
  33. ^ a b c d 神理教”. 宗教情報リサーチセンター. 2012年9月30日閲覧。
  34. ^ a b c d 井上順孝ほか編 1996, p. 456.
  35. ^ a b 井上順孝ほか編 1996, p. 413.
  36. ^ “文部科学省人事”. 朝日新聞: p. 5. (2009年4月1日) 
  37. ^ a b 文化庁『宗教年鑑 令和5年版』 P61
  38. ^ 『雑誌新聞総かたろぐ2011年版』メディア・リサーチ センター、2011年5月、574頁。ISBN 978-4895540414
  39. ^ 「特集開教百三十周年記念大祭に向けて神理教のいろはに」『神理雑誌』2010年4月、6-9頁。  教会一覧の出典





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