石田芳夫 棋風

石田芳夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/27 10:05 UTC 版)

棋風

地に辛い棋風で、三々を多用し、両三々も得意戦法とした。ヨセが強いという評価に加えて、序盤構想も意欲的である。大斜定石の研究家としても知られ、中国流布石に対抗する白番の有力な手法としても活用した。

置碁の名手としても知られ、1972年から2年間『棋道』誌上でアマチュアとの2子から5子局の指導碁シリーズを打ち、23勝1敗という結果だった。1983年から『レッツ碁』誌上ではプロ対プロの置碁対局も行い、九子置かせて57目負けなどの記録が残っている。また、2013年3月21日の囲碁ソフト「crazy stone」との四子局に敗退し、「人間なら打ってくる場所に打たない冷静さと柔軟さを感じた。天才かも」と述べた。

人物

「コンピューター石田」のニックネームなどと相まって、クールというイメージにより「新時代の勝負師」など現代的棋士像の代表のように言われ、本因坊を奪取した頃には趣味のギターの弾き語りをする姿が雑誌に掲載され、現代っ子の本因坊として話題を集めた。また本因坊獲得時はまだ木谷の内弟子として生活し、「部屋住みの本因坊」とも呼ばれた。

趙治勲は内弟子時代、兄弟子であった石田によく酒を飲みに誘われていたそうで、お互いにまだ酒の美味しさが分かるような歳でないにもかかわらず石田は「酒はダルマに限るぞ、ダルマを飲まなければ」と語っていたという。また趙曰く、石田の内弟子時代の生活態度は「劣等生」であり、座っているときはギターを弾き寝転がってはマンガを読む、どうしようもない人だったという。また「石田さんはこの時期にもっと勉強していたら、自分なんて吹っ飛ぶとんでもなく強い棋士になっていただろう」と語る[14]

内弟子時代には早くから独立を希望していたが、木谷師匠夫妻は石田の性格上遊び呆けるのが目に見えていたため、許さなかった。何度も願い出た末、「タイトルを取ったら」という条件が示された。すると人が変わり必死に勉強し、何と本因坊を取ってしまった。本当に取れるとは思っていなかった師匠夫妻は「あと一つタイトルを取ったら、今度こそ独立を許そう」ともう一度条件を提示した。すると見事名人も取り、独立を許された[14]

あだ名「コンピューター」について石田は、地の計算に熱心な自分を揶揄する意味で、高川格が言い出したのではないかと語っている[15]

「秀芳」の雅号は、木谷道場で書を指導していた書家の佐々木泰南[16]が命名した。

将棋棋士の内藤国雄が「おゆき」でヒットしたとき、囲碁界からも誰かということで、石田に白羽の矢が立ち[17]、1977年にコロムビアからレコード「忘れるぜ」「ひよわな花」を出し、歌手デビューした。このころから、1980年代前半ごろまで、口ひげを蓄えた時期があった。

木谷道場の平塚時代・四谷時代両方内弟子だったのは石田のみである[1]

道場で一番料理がうまくキャベツ刻みが得意だった[1]

逸話

  • 1971年6月5日、第8期プロ十傑戦決勝5番勝負第3局で、2連勝の後梶原武雄九段との対局中、コウ立てせずに取り返し、反則負けを喫す。これは、タイトル戦初の反則負け。その後3勝2敗でタイトルを得ることには成功している。
  • 2002年2月21日、第26期棋聖戦七番勝負第5局の立会人を務める。この碁では、王立誠棋聖に挑戦する柳時熏がリードして迎えたダメ詰めで、アタリになっている6子を王が抜く意思を示したことから議論が生じた。柳は終局の同意があったと主張し、王は聞こえず同意していないとして、立会人石田の判断を仰ぐこととなった。石田と主催誌である読売新聞の関係者は、録画や再検証により終局の同意が得られていないとし、そのまま対局は続行となった。王はこの逆転勝利により3勝2敗となり、第6局も勝利し防衛に成功した[18]
  • 2006年4月9日NHK杯中野泰宏九段との対局では、局面を優位に進めていた石田に錯覚があり、形勢は中野に傾いた。しかし、終局間際に中野が5子のアタリに突っ込むという「とんでもなく初歩的なミス[19]」を犯した。石田はこの石を抜き、左辺の黒の大石を取り大逆転。中野は即時投了した。中野は石田に申し訳ないことをしたとのちに語っている[19]。中野のこのポカは、同年に関西棋院から発売された囲碁かるたに詠まれている。
  • IBM早碁オープン戦の初代優勝者となった時「早碁に強い者が本当に碁が強い」と発言し、論議を呼んだ。
  • 小学校六年生の時にホームシックからか平塚の木谷道場から脱走したことがある(「週刊囲碁パラダイス」における本人談)。

  1. ^ a b c d e 内藤由起子(囲碁観戦記者)『それも一局 弟子たちが語る「木谷道場」のおしえ』水曜社、1969年、27-48頁。ISBN 978-4-88065-396-9 
  2. ^ 江崎誠致「昭和の碁」(立風書房)P.180
  3. ^ 頼尊清隆『石田秀芳 本因坊への道』講談社、P.74
  4. ^ 現在は、芝野虎丸が19歳11ヶ月で名人位を獲得し最年少記録を更新している。
  5. ^ 本人も「昭和60年(1985年)の天元戦を最後に挑戦手合に出ていないので、元気が良かったのは前半の半分だけだね」と語っている。(朝日新聞2006年8月12日付)
  6. ^ 石田秀芳. “プロが全力で取り組んでも分からない碁は、ずば抜けてすばらしいゲーム”. NEWS TOKYO. 2020年7月12日閲覧。
  7. ^ 【春の褒章】704人26団体 紫綬褒章に映画監督の周防正行さん、囲碁棋士の石田芳夫さんら”. 産経ニュース (2016年4月28日). 2016年4月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月7日閲覧。
  8. ^ 二十四世本因坊秀芳が通算1000勝達成[史上11人目]”. 日本棋院のアーカイブ. 2019年1月22日閲覧。
  9. ^ 二十四世本因坊秀芳が1100勝を達成”. 日本棋院 (2019年1月18日). 2019年2月8日閲覧。
  10. ^ 2021年6月30日読売新聞夕刊5面
  11. ^ 公式戦のみ。女流棋戦・地方棋戦(王冠戦関西棋院第一位決定戦など)は除く。
  12. ^ 『官報』号外第97号、令和4年5月2日
  13. ^ 令和4年春の叙勲 旭日小綬章等受章者 東京都” (PDF). 内閣府. p. 1 (2022年4月29日). 2023年5月29日閲覧。
  14. ^ a b 趙治勲二十五世本因坊が告発する、兄弟子・石田芳夫二十四世本因坊の“悪行”とは
  15. ^ 内藤由起子『囲碁の人ってどんなヒト』(毎日コミュニケーションズ、2005年)、101ページ。
  16. ^ 佐々木 泰南|八戸市”. www.city.hachinohe.aomori.jp. 2023年9月21日閲覧。
  17. ^ 囲碁棋士 石田芳夫(3) 自分が歌ったレコード
  18. ^ 読売新聞 棋聖戦 第26期第5局
  19. ^ a b NO.25 中野泰宏 九段 (プロ棋士の気まぐれリレー日記)”. 日本棋院のアーカイブ. 2019年1月22日閲覧。






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