盛岡藩
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産業構造
畜産
古代・中世に糠部と呼ばれた地域は名馬の産地として知られ、糠部の駿馬と称されており、その中心は北奥の三郡(北、三戸、九戸)であった。平安末期には東西南北の4つの「門」(かど)と、9つの「戸」(へ)に分けられ、九ヵ部四門の制(くかのぶ しかどのせい)が成立し馬牧・駿馬の産地として知られていた。糠部の公田に課せられた年貢は馬で納められていた[27]。
南部駒
近世期に入ると、南部藩の馬制は、藩直営の牧野で飼われる「御野馬(おのま)」と、民間の牧野で飼われる「里馬(さとうま)」との二本建となる。南部藩内の(九牧含む)すべての牛馬を総轄したのが、「牛馬掛御用人」[28]であって、その下に「野馬掛」と「里馬掛」がおかれた。
また、民間の馬であっても、藩の許可なく移動させることや売却することは禁止されており、藩は馬産による収益を確保していた。藩から貸与された種牡馬によって生まれた若駒(牡馬を「駒」、牝馬を「駄」と呼んだ。)は、牝なら馬主に与えたが、牡はすべて二歳駒で「掫駒(せりごま)市」にかけて廉価で徴収し、種馬や軍用馬とした。馬商人も取引区域が限られ、他国人の取引は制限されていた[23]。
盛岡城下の成立とともに産馬の掫(せり)市が始められたといわれているが、詳細は明らかではない。 田名部では季節的に早い馬市が毎年ひらかれていた[23]。
貞享元年(1684年)、御掫駒奉行が9組20人任命され、領内30カ所近くの馬市を開催している。
南部九牧
藩政期を通じ、南部九牧(なんぶくまき)[29]と総称される「御野(藩営牧場)」を整備して、実務は三戸に御野馬役所を設けて、総括責任者は「御野馬別当」と呼ばれ、各牧には「馬責(調教)」「馬医」が配置されて補佐する一方、藩牧が存在する各代官所には牛馬役が置かれた。
- 大間野(青森県下北郡大間町)
- 奥戸野( 〃 〃 〃 )
- 蟻渡野( 〃 上北郡横浜町および野辺地町北部)
- 木崎野( 〃 〃 三沢市)
- 又重野( 〃 三戸郡五戸町倉石地区)
- 住谷野( 〃 〃 三戸町)
- 相内野( 〃 〃 南部町)
- 北野 (岩手県九戸郡侍浜村)(現 久慈市)
- 三崎野( 〃 九戸郡宇部村)
他に田鎖野・妙野・広野・立崎野があって、公牧は計13カ所。住谷野は中世から牧が存在したが他の牧は多くが寛永から正保期に整備されている。この他に寛文4年(1664年)の八戸藩分立によって盛岡藩は妙野(青森県八戸市)と広野(岩手県久慈市)の二牧を譲渡した。
実際の藩牧経営は地元農民に転嫁され、夫役を徴収して行われていた。牧場に飼育されている馬は、冬期には、積雪や寒凍を避けて、周辺の農家に課役として預けて保護している。また、牧場により、積雪の少ないところは、四季を通じて放牧のままであった。
明治維新後、盛岡藩の減転封に伴い、各牧は後継の斗南藩・七戸藩に引き継がれたが、廃藩置県後に廃止された。明治3年(1870年)9月、旧盛岡藩の産馬事業は直接政府が管轄することとなり、盛岡に民部省養馬掛出張所が置かれた。 明治5年(1872年)10月、岩手県は九戸郡侍浜村北野と宇部村三崎野の旧盛岡藩の牧場を廃止した。
里馬
里馬は飼育にあたって、村単位に春から秋まで共同の牧野や、冬場の舎飼のための草刈り場も共同利用の入会秣場であり、村ごとに「馬組」が結成されて「馬肝煎」がそれを統括し、藩の牛馬方役人の管理に服した[23]。
藩有の「野馬」は藩の乗用や贈答用にあてられていたほかに、郷村に無償で父馬として預けて「里馬」の改良に役立つ貸付種馬の育成を目的としており、藩の「牛馬改役」のほか、各代官所の「牛馬役」が巡回して郷村の農家の飼食する牡馬の調査を行なった。
宝永3年(1706年)、領内の里馬に関して、牝馬(母駄)を上中下の三等級に区分して本帳(馬籍帳)に登録し、その区別を何人も判別するために、髪を切り父馬も髪を切り一般牡馬との区別の明確化を図り、上駒、中駒を他領に出すことは一切禁じられた。
御馬買衆
毎年秋に江戸幕府から「公儀御馬買衆」、諸大名から「わき馬買」と呼ばれる軍馬買い入れの役人が派遣されており、江戸幕府は軍馬購入のために、刈田郡宮(宮城県)から出羽国に出て、途中の横手の馬市で仕入れた後、六郷・角館・生保内を経由して国見峠を越え、主産地の盛岡入りするのが通例だった。公儀御馬買衆は寛永2年(1625年)にはじめられ、元禄3年(1690年)を最後に廃止されたが、ある年の記録によれば一行の人数は御馬買衆は2人で従者を含めると50人におよんだという。軍馬の購入は例年二百頭前後で、11月には奥羽街道を経て江戸に帰ったという[30]。元禄4年(1691年)4月、老中より、盛岡・仙台両藩の留守居役に対して、御馬買衆の派遣は中止するが、歳、毛色、性別を目録に認めて、幕府に提出するよう求められ、目録をもとに注文して馬を購入するようにした。この仕組みを「御買馬」と呼ぶようになった。享保4年(1719年)まで続き、毎年7-8疋が購入された。
牛の飼育
南部領の牛飼育の産地は偏っておらず、北上川流域以外で行われ、閉伊郡の北方や九戸郡北部方面に飼育され、峻嶮な山谷の運搬など、民間の駄用に利用され、農耕に使役された形跡はない。北上谷の米穀地帯への塩とその他の海産物を、おおむね閉伊・九戸の海岸に近い山間部から「野田ベコ」と呼ばれる牛方によって搬入される例があった。
藩における牛の飼育は、馬に比較すると後れていたため、馬における諸制度のような完備が見受けられなく統制も緩やかであった。官職には目付役監督下に馬牛改役があり、各代官所毎に牛馬役があって、各村の馬牛肝煎を指揮していた。
鉄器、鉄製品
今でも「南部鉄器」として鉄瓶などが有名であるが、その歴史は17世紀中頃からとされ、上述の南部重直が、甲州から鈴木縫殿を鋳物師として、京都から小泉五郎七を釜師として呼び寄せたのが始まりである。
また、八戸藩領の九戸郡でも、十分な産出量の砂鉄を利用した鉄器があり、先に述べた偽金の製造はこの地方が主流であったという。もっとも、悪貨が良貨を駆逐し、その後の藩札乱発もあって激しい物価高となり一揆の原因ともなった。
注釈
- ^ 盛岡藩の廃藩置県の折に課せられた70万両の納付は減免されており、藩の借金も盛岡に限らず1843年までは破棄、1844年以降の物は明治政府が国債3,000万円を起債し肩代わりするなど救済措置も見られた。
出典
- ^ 天正20年(1500年)7月27日付豊臣秀吉朱印状南部信直宛(盛岡市中央公民館蔵) (PDF)
- ^ “南部家第46代当主 「前田利家への恩義から歴代当主の名前には『利』をつけた」 〈週刊朝日〉”. AERA dot. (アエラドット) (20140523T070000+0900). 2019年9月7日閲覧。
- ^ 『弘前城築城四百年』長谷川成一著など
- ^ “平成・南部藩ホームページ”. www.tonotv.com. 2019年9月7日閲覧。
- ^ 菊池悟郎, 『南部史要』 , 272頁 (1911年).
- ^ 下斗米哲明 2022, pp. 182.
- ^ 『山鹿語類』、巻二十九
- ^ 松浦静山『甲子夜話』(正篇三十など)。
- ^ 刀 朱銘 延寿國時
- ^ 『藩史大事典』
- ^ 【いわての住まい】武家
- ^ (むつ市史) 近世編
- ^ 『むつ市史』、1988
- ^ 『岩手県史』
- ^ 文化7年11月15日条 藩日記
- ^ (むつ市史)近世編
- ^ (近世こもんじょ館)八戸藩の村役人制度-名主・大下書・田屋について
- ^ 「青森県史」資料編 近世篇 4 南部1盛岡藩
- ^ (岩手県博物館)北上川の舟運
- ^ (日本財団)郡山河岸と小操舟
- ^ 「嘉永慶応 江戸切絵図」(尾張屋清七板)
- ^ 『目黒筋御場絵図』(国立公文書館所蔵)
- ^ a b c d 『大間町史』
- ^ 「森嘉兵衛著作集 七 南部藩百姓一揆の研究(昭和10年(1935年))」 (法政大学出版局 1992出版)
- ^ (岩手県博物館)百姓一揆を禁じた制札
- ^ 工藤祐董著『八戸藩の歴史』八戸市、1999
- ^ 「吾妻鏡」文治5年9月17日条
- ^ 細井計、兼平賢治、杉山令奈「公儀御馬買衆と盛岡藩」『岩手大学教育学部研究年報』第61巻第2号、岩手大学教育学部、2002年2月、149-168頁、CRID 1390290699872295680、doi:10.15113/00011437、ISSN 0367-7370。
- ^ (岩手県図書館) 岩手の古地図 南部九牧之図
- ^ あきた(秋田県広報誌)通巻121号、1972年(昭和47年)6月1日発行
- ^ 『新編八戸市史 近世資料編1』八戸市、2007、426P
- ^ 八戸藩の範囲(八戸市博物館)
- ^ 岩手県の誕生 (PDF) (岩手県立博物館だよりNo.101 2004年4月)
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