盛岡藩 城地

盛岡藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 09:20 UTC 版)

城地

要害屋敷

はじめは、伊達、佐竹、津軽藩に対する国境警備のための城館であったが、文化年間になると地方統治の一拠点に変質し、役所が要害屋敷にあり、年貢(金穀や現物)を収納する藩庫(土蔵)があってその土地の人々が年貢を上納する便宜上の理由もあり、代官所とは異なった。

江戸城の詰間

  • 柳間 (寛政期)
  • 大広間 (天保期、文化2年(1805年)以降 大広間詰)

藩邸および江戸での菩提寺

飢饉

古来、この地方では飢饉が非常に多く、その度に多大な死者を出していた。特に、慶長5年(1600年)から明治3年(1870年)の盛岡廃藩までの270年間を通じて断続的に飢饉が続き、その間に、記録に残っているだけでも不作が28回、凶作が36回、大凶作が16回、水害が5回あった。

特に沿岸部(閉伊九戸三戸地方)においては、やませと呼ばれる冷風による被害が甚大で、天明3年(1783年)から天明7年(1787年)にかけて起った全国的な大飢饉(天明の大飢饉)では収穫が0という惨状であった。

また、藩経営が潤滑に進まなかったため備蓄が少ないばかりか、農地も農作物も無いという状態に陥ったことから、死者がさらに増えた原因であるとされている。

飢饉による一揆

盛岡藩での一揆は記録にあるものだけでも133回(次点の久保田藩(秋田藩)は87回)あり、その大半は18世紀末以降であり、時代が下るにつれて、盛岡以南の稲作地帯と、製鉄・水産業の盛んな三陸沿岸地域での一揆が多く発生している。

原因としては以下の諸点が考えられる。

  • 水稲北限地域外で無理に水稲生産を強制したため、連年凶作に見舞われ、代換品による食事を奨励したが、代換品すらも備蓄が無かったこと。
  • 寛政5年(1793年)の松前(蝦夷地)出兵が原因の財政負担増。
  • 目安箱の設置が、罪人を糾明する証拠集めのために用いられたこと。
  • 負債を次から次へと作る新税・重税で解消しようとしたこと。
  • 海産業を主とする三閉伊地方(三陸海岸沿岸部)に、水稲の基準で重課税。
  • 三閉伊地方の産業(海産、材木、製鉄)に御用金制度を用い、無理な課税を行ったこと。
  • 「軒別税」(人頭税)を実施したこと。
  • 藩札の大量発行によるインフレーション
  • 幕府の手伝い普請(公共工事手伝い命令)による臨時課税。
  • 財政難から藩士の禄を長期にわたって借上したこと。
  • 戦国時代以来のライバルである弘前藩仙台藩に対抗するために恒常的に高直しや官位の叙任工作を幕府有力者に働きかけていたための出費。

さらに、農民たちはこのような原因から起こった貧困を脱するため、偽金(密銭)を鋳造したが、藩側は原因となる問題を放置のまま、偽金の製造に関わる者、使用した者を重罪人として扱い、厳重に処罰した。それまで何とか偽金で食べ繋いで来た農民たちは、1万人規模の一揆を起こすようになり、それを成功させたのである。 盛岡藩百姓一揆の中で最も大規模かつ組織的で、その要求が政治的であったものが弘化4年(1847年)と嘉永6年(1853年)の三閉伊一揆であった。

天保期の一揆・騒動は盛岡以南の穀倉地帯の買米制度とその停止を要求して行われており、田名部・野辺地・七戸の各通は買米の対象となる穀倉地帯ではなく、他領からの移入米によって生活をまかなう地区であったため、対立を引き起こさなかった。そして、寛永期以降の蝦夷地幕領化の中で「松前稼」と呼ばれた、蝦夷地への労働力移動が可能であり、飢餓期の困窮を一時的に回避することができた。

飢饉・一揆

東北地方の太平洋側では、初夏になると、「やませ」と呼ばれる冷涼な北東風が吹き、夏でも気温が上がらず、明治以降においても、冷害が凶作をひきおこしたことがある。北奥に位置する南部藩は領域は広大であっても、そのほとんどが山林原野によって占められて耕地が少なく、また水稲生産の限界地的な地域で、当時の幕藩社会が石高制に基づいて、つねに財政的基盤を畑作より水稲生産力に求めていたが、天候不順に起因する冷害と、旱舷・風水害・霜害・病虫害を原囚とする凶作を契機にして、食糧の欠乏が原因で多数の飢人と餓死者を出していた。

盛岡・八戸両藩で発生した百姓一揆は132回を数え[20][21]、徳川期の最多発生地であった。その中でも「稗貫・和賀」(花巻・北上)地方が最多発地域だった。

元禄・宝暦・天明・天保の飢饉は被害が甚大で盛岡藩の四大飢饉といわれ、凶作・飢饉の続発で藩財政を圧迫し、重税とそれに反対する一揆が繰り返されてきた。

元禄の飢饉

(元禄4年(1691年) - 8年(1695年)) 元禄年間(1688年 - 1704年)の盛岡藩は、元禄6年(1693年)・10年・11年・16年の四ヵ年を除くと、あとは連年不作と凶作が続き、元禄8年と15年には飢饉となった。

元禄8年、典型的な霖雨・早冷による冷害がもとで作柄も悪く、年貢収納が例年の28.6%しか見込めず、ついに飢饉となって米価が高騰した。11月、藩では幕府に「領内不作の儀」について報告した結果、来春の参勤が免除され、その費用をもって飢饉対策に充当した。米雑穀等の他領移出禁止、貯穀奨励、他領者の領内逗留禁止、酒造の禁止、火の用心などを命令するとともに、城下の庶民救済のため払米をし、紺屋町と寺町では盛岡御蔵米を小売させた。さらに城下の寺院や富豪の協力を得て、長町梨子本丁出口辺と束顕寺門前の二ヵ所に御救小屋を設け、飢人の救済にあたった。

寛延2年 猪飢饉(イノシシけがづ)

当時関東周辺で、田畑を木綿や養蚕などの収益の上がる作目に転換したため、大豆が不足した。それを補うため盛岡藩や八戸藩が大豆生産を行い、焼き畑を繰り返したが、放棄地に餌が生い茂ることで猪が異常繁殖して、寛延2年(1749年)、凶作で里に下りてきた畑の作物を食い荒らし、多くの農民を餓死に追いやった(猪飢饉)。

宝暦の飢饉

(宝暦3年(1753年) - 宝暦7年(1757年))

宝暦4年(1754年)が大豊作であったので約10万石の江戸廻米を行った結果、藩内に米が払底し、宝暦5年(1755年)の大凶作を契機に大飢饉に発展した。藩では城下の富豪からの御用金を資金として、翌宝暦6年(1756年)正月、城下の永祥院と円光寺に茅葺きの御救小屋を建て、飢人の収容救済に乗り出した。

宝暦6年に代官所が提出した報告書によると、餓死者 49,594人、空家 7,043軒であり、なかでも三戸郡五戸通、次いで岩手郡の雫石通・沼宮内通の被害が激甚を極めた。

天明の飢饉

天明2年(1782年) - 天明8年(1788年))

天明3年、土用になっても「やませ」よって夏でも気温が上がらず、稲の成長が止まり、加えて、大風、霜害によって収穫ゼロという未曾有の大凶作となり、その年の秋から翌年にかけて大飢饉となり、多くの餓死者を生じた。また、気象不順という自然災害だけに原因があるわけでなく、農村に対する年貢収取が限度を超え、農業における再生産が不可能な状態に陥った。

寛政2年 長岡通久保村知行地一揆

寛政7 - 8年 盛岡南方税制改革一揆

寛政11年 - 文政4年 蝦夷地幕領化にともなう一揆

下北地区の一揆13件の内8件までは、寛政11年(1799年)から文政4年(1821年)までの蝦夷地幕領化にともなう時期に集中している。

寛政11年(1799年)2月の東蝦夷地の幕領化によって、享和2年(1802年)の東蝦夷地の永久直轄化と、課役負担の固定化という危機感を増幅させた。

文化元年(1804年)の佐井 - 箱舘間の航路にともなう夫役・伝馬役にかかわる課役負担の増加に、人馬通行役の軽減を求めた愁訟が起こり、文化5年(1808年)12月に、盛岡藩は東西蝦夷地を永久に警護するため1,000人の藩兵を蝦夷地へおくることになったが、代わりに領地加増を伴わない20万石への高直しが行われる。それにより増俸なしに軍役負担だけが倍になって藩財政は枯渇状態であるという過重な結果をまねいた。

文化9年(1812年)農民が従来負担してきた賦役を貨幣で賦課した「定役銭」を農民に転嫁したため、北通の関根村、下風呂村、易国間村、蛇浦村、大間村、奥戸村、牛滝村、佐井村の各肝入と大畑村険断が連名で田名部代官所に愁訴におよび免除された(文化9年定役銭一揆)が、西通と東通の村々は負担が重くなった。また、文化12年(1815年)にも新役銭の徴収免除の愁訴が行われた。

天保の飢饉

天保3年(1832年) - 天保10年(1839年)) 霖雨・早冷・降霜などの気象条件を主な原因とし、天保3年(1832年)から同9年(1838年)まで連続的に凶作が続き、これを七年「飢渇(けかつ)」と呼ばれた[22]、また藩財政の窮乏による重税政策がその度を高めた。天保期、盛岡藩領では凶作がうち続き、にもかかわらず、盛岡藩領からは藩財政の補填のために米価の高い江戸を目標としての米の移出が強行されていた。それは百姓からの年貢の通常の取り立てでまかなうことはできず、来年の耕作のための種籾や、食料としての蓄えにもおよぶものさえ取り立てて廻送していった。

天保5年 久慈・軽米通 稗三合一揆

天保4年(1833年)の飢饉に際して、八戸藩は一切の救済を行うことなく、領民の一日の食料を精白しない稗三合と定め、それ以外の穀物は市場の実勢を無視し、強制的にすべて藩札で安く買い上げることを布告した。 天保5年(1834年)12月に入って是川村を皮切りに、久慈・軽米・嶋守に広がり、最初集結した2千人の一揆勢が久慈街道を、法螺貝の音轟かせながら八戸城下鍛治町および周辺村々に結集した時には人数8千になっていたと言われる。一揆の訴願書には、70以上の願書を出して、野村軍記の引き渡しと稗三合一件の撤回を要求した。 野村軍記は起こった総百姓一揆の責任を負わされて入牢して八戸で獄死した。

天保7年 盛岡南方一揆 盛岡越訴

天保7年(1836年)11月に新税・増税反対一揆として、現大迫町(花巻市)の農民数千人が決起して、盛岡城下に押しかけ(盛岡強訴)の一揆側の要求を一度受入れたが、解散をすると、前言を取消した。

天保8年 盛岡南方一揆 仙台越訴

天保8年(1837年)には、昨年の一揆に対し稗貫・和賀の農民2千人以上が 仙台領に越訴する事態に発展し、南部藩を非難した。南部藩は一揆衆を取り戻すため、首謀者を処罰しないことを約束し、仙台藩は幕府に内密にすることを約束した。しかし南部藩は一揆衆を取り戻した後、許可したものを破棄し、首謀者を処刑した。これで領民からは軽蔑するようになった。その後、南部藩は目安箱を設置した。

三閉伊一揆

三陸東海岸では水稲生産力には恵まれず、江戸市場輸出・長崎俵物輸出、魚粕・魚油の商品生産化によって、他領からの移入米によって生活をまかなう地区であった。

弘化4年 遠野強訴

盛岡藩は、天保10年(1839年)、今後、御用金など一切の租税を廃止するとして、全領内に一軒あたり1貫800匁を基準に全戸に割り当てた軒別役という新たな税を課した。三陸沿岸の大槌・宮古通の三閉伊地域は、特に課税額が多く、全領の合計は2万9180両におよんだ。

弘化4年(1847年)10月に、新たな課税はしないという先の約束を破り、財政難に窮した藩は、外船警備のための特別御用金5万2500両を課した。これが契機となって11月17日、野田通の安家村(下閉伊郡岩泉町)から起きた一揆が周辺も村々を巻き込んで小本、田老、宮古、山田、大槌と南下し各地の一揆と合流して笛吹峠を越えて、遠野に強訴した。 上納金の不払いを要求するものではなく、大挙して仙台領へ出稼ぎにでてその労賃をもって支払うという経緯のため、南部藩の恥を天下にさらすこととなり、鎮圧一点ばりの鎮撫は行えなかった。

12月4日、遠野早瀬川原において、不信極まる本藩上席家老南部土佐に何を問われても口を開かず終始無言で相手とせず、遠野南部家家老新田小十郎に、一揆の代表は集会の25ヶ条の要求を願書で提出した。要求は、御用金の免除、大豆・塩の買い上げ免除、いままでの定役と年貢以外の新税の免除などであった。ついに、盛岡藩は、これらの要求の12条を認めて事態を収拾しようとしたざるを得なかった。 遠野南部家では一揆の農民に帰路の食料を支給したので、12月5日から各村々に散っていって、伊達領への越藩もかろうじてまぬがれ、ひとまず鎮撫するにいたった。 『内史略』によれば、一揆の代表弥五兵衛は花巻で逮捕され、盛岡で牢死している。

また、これに呼応し、同年12月1日に鬼柳・黒沢尻通、同15日には徳田・伝法寺通と八幡・寺林通でも一揆が発生したが、当局によって鎮圧された。

(藩の対応)

嘉永元年(1848年)6月、責任を取る形で南部利済は病気在国中であったため病気隠退を願いで、南部利義が第13代藩主となるが、利済は家督は譲ったものの官位も返上せず「大太守」の名で院政が行われた。 嘉永2年(1849年)7月、利済は藩主位を譲っていた南部利義が江戸滞在中に南部土佐を派遣して退位するように圧力をかけられて、11月に隠居した。この廃立に反対した東堂学派一派は翌1850年に弾圧され、南部利剛を第14代藩主に相続させて院政を継続した。

嘉永6年 仙台強訴

嘉永6年(1853年)2月、藩は行きづまった財政はいかんともしがたく、郷割御用金の徴収が強制されたことを契機にして、各種の新税に反対する流通商人を中心に、同年5月、野田通の田野畑村から一斉に蜂起をはじめ、浜通りを南下して田老・宮古・山田の各村を押し出すにつれ大群衆となっていった。 6月4日、大槌通に押し寄せ、翌5日に釜石に集合した一揆の人数は一万六千余人にも達し、仙台領への越訴を画策し、盛岡領平田番所から仙台領へ押し通ろうしたが、唐丹番所側では 藩境警備を厳重に取り締まっていたため、間道を進み気仙郡唐丹村に八千人余が越訴し、仙台藩の役人に訴え出るという、前代未聞の自体になっていた。 これに対して、盛岡藩が策を練るすべもなく混乱しているうちに、6月17日に一揆の代表45人を残して帰国した。村々は、この代表に何らかの不幸が起きた場合には共同で子孫養育料をだすことなどの約束を取り交わしていたのである。

その訴状によれば、三閉伊を幕領化か、仙台藩領化を願い出たもので、仙台藩では政治的要求であるから返答は出来ないとし、具体的な要求を尋ね、商品経済の発達によって賦課された重税に対する反対行動であったが、答えた47箇条の願文をつくりあげ、伊達藩へ差し出した。伊達藩と南部藩の話し合いは5ヶ月も話し合われ、ようやく三閉伊通りの農漁民の願いが叶ったのであった。6ヶ月間にわたった押し出し一揆は成功の内に終わる

(藩の対応)

嘉永7年(1854年)、この一揆は幕府に知られ、藩主・利剛はお構いなし、隠居の利済には参府の上、永久閉居が申し付けられた。 領袖を失った利済派は、家老 南部土佐、横沢兵庫を、御役御免のうえ家祿半減、永久閉居。参政石原汀田鎖茂左衛門、川島杢左衛門らも家祿屋敷を没収のうえ、召しかかえを放たれる。

南部利義は隠居の身になっており、父利済が公儀から謹慎を命ぜられたときも、遊興遊猟を続けていたため、譴責を受け、江戸家老の毛馬内典膳、東中務は責任を負って免職されている。


  1. ^ 天正20年(1500年)7月27日付豊臣秀吉朱印状南部信直宛(盛岡市中央公民館蔵) (PDF)
  2. ^ 南部家第46代当主 「前田利家への恩義から歴代当主の名前には『利』をつけた」 〈週刊朝日〉” (日本語). AERA dot. (アエラドット) (20140523T070000+0900). 2019年9月7日閲覧。
  3. ^ 『弘前城築城四百年』長谷川成一著など
  4. ^ 平成・南部藩ホームページ”. www.tonotv.com. 2019年9月7日閲覧。
  5. ^ 菊池悟郎, 『南部史要』 , 272頁 (1911年).
  6. ^ 盛岡藩の廃藩置県の折に課せられた70万両の納付は減免されており、藩の借金も盛岡に限らず1843年までは破棄、1844年以降の物は明治政府が国債3,000万円を起債し肩代わりするなど救済措置も見られた。
  7. ^ 『藩史大事典』
  8. ^ 【いわての住まい】武家
  9. ^ (むつ市史) 近世編
  10. ^ 『むつ市史』、1988
  11. ^ 『岩手県史』
  12. ^ 文化7年11月15日条 藩日記
  13. ^ (むつ市史)近世編
  14. ^ (近世こもんじょ館)八戸藩の村役人制度-名主・大下書・田屋について
  15. ^ 「青森県史」資料編 近世篇 4 南部1盛岡藩
  16. ^ (岩手県博物館)北上川の舟運
  17. ^ (日本財団)郡山河岸と小操舟
  18. ^ 「嘉永慶応 江戸切絵図」(尾張屋清七板)
  19. ^ 『目黒筋御場絵図』(国立公文書館所蔵)
  20. ^ 「森嘉兵衛著作集 七 南部藩百姓一揆の研究(昭和10年(1935年))」 (法政大学出版局 1992出版)
  21. ^ (岩手県博物館)百姓一揆を禁じた制札
  22. ^ a b c d 『大間町史』
  23. ^ 工藤祐董著『八戸藩の歴史』八戸市、1999
  24. ^ 「吾妻鏡」文治5年9月17日条
  25. ^ 細井計, 兼平賢治, 杉山令奈, 「公儀御馬買衆と盛岡藩」『岩手大学研究年報』 第61巻第2号, 2001年 p.149-168, NCID 120001123843, doi:10.15113/00011437
  26. ^ (岩手県図書館) 岩手の古地図 南部九牧之図
  27. ^ あきた(秋田県広報誌)通巻121号、1972年(昭和47年)6月1日発行
  28. ^ 『新編八戸市史 近世資料編1』八戸市、2007、426P
  29. ^ 八戸藩の範囲八戸市博物館
  30. ^ 岩手県の誕生 (PDF)岩手県立博物館だよりNo.101 2004年4月)






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