盛岡藩 領内の統治

盛岡藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/27 06:49 UTC 版)

領内の統治

諸城破却書上

天正18年(1590年)7月、秀吉より所領安堵の五カ条からなる朱印状が交付され、南部信直は領内にある家中の城館の破棄を命じ、また家中の妻は、南部氏の居城下への集合を厳命されている。地方の諸城にいたものは従来の在地地主から、その城館を破却して大名城下に出仕し、不在地主という性格に変わっていった。 同20年6月には、その処理を報告している。

盛岡藩

代官

大目付は司法、警察、軍事を総轄し、勘定奉行の下に御代官、御山奉行などが配置され、代官は100石以上の本番組士。各通ごとに2人が置かれ当番非番制により、民政関係の庶務に従事していた。

通制

盛岡・八戸両藩独特の地方行政組織として、「通制」がある。これは領内の郷村支配のため派遣された代官が統治する地区を「(とおり)」と称するものである。「通」は元々、単に方面もしくはその地方を指して表現する言葉であったが、天和年間(1681年 - 1683年には、代官所統治区域を指す言葉となった。

「通」には原則として代官を置く。代官は盛岡で藩士の中から任命し、任期を2年として2人を任用、半年交替勤務とした。その下に下役・物書を2、3人を任用した。下役は代官が地方の給人から任用した。代官はその「通」における地方行政・司法・警察・租税の一切を執行する権限をもち、その経費は村高に応じて現代で言う地方付加税として徴収した。

盛岡町奉行

藩の諸機関の整備は寛永年間に基礎が定まり、地方統治は城代統治だったものが城の廃絶に伴い、代官統治へと移行していった。大目付所の下に盛岡町奉行(天和元年(1681年)以降、寺社奉行と兼務し、寺社町奉行と称した。)が置かれ、盛岡市中の取締まりに当たった。創設の年代は盛岡城下開市と同時期の慶長年間といわれている。

盛岡町奉行の組織

(盛岡城下)検断頭(六検断) - 町検断役 - 書留役 - 宿老役

盛岡城下六検断は苗字帯刀が許され[15] ており、通例中津川を挟んで、向い町(河南)方向に3人、川北に3人常置され、藩からの任命で任期は終身であり、町吏の最高機関として、直接町奉行の支配に属していた。

郷村三役

南部藩の村政は肝煎(村長格)、老名(助役格 2,3人)、組頭(五人組組頭)を持って構成され、その下に本百姓、水呑百姓がいた[16]

  • 肝煎 - 宿老 - 組頭

町と村との区別は、町は宿駅伝馬の有る市街地で、村はそのような設備がないところである。

領内の町と称されているところでは、町検断を通して日常の町政が運営された。町検断は軽犯罪の処罰権をもっていたので、村肝煎より権限が大きかった。町検断も村肝煎も代官所の配下に属し、任免はその所管区の代官の権限で行われ、任期は不定で事故がない限り終身勤務していた。多くは世襲でその村や町で生活の安定している名家が任命され、その自宅を役宅とした。

老名は年寄ともいい、肝煎・検断の補助役として村政・町政を処理した。

村内20石を単位に検地帳に登録された本百姓を中心に、五人組を組織し、五人組の長を組頭と呼んだ。肝煎・検断などからの通知を伝達し、相互に連帯し相互互助に務め、売買質入れ手形の連印犯罪防止その他の義務を負った。なお、幕領のような村方三役のうち農民の代表である百姓代はおかなかった。

村肝煎の職務内容については『紫波郡矢巾町教育委員会 矢巾町文化財報告第31集 「間野々村肝煎緒帳面改引請目録」延享元年(1744年)』に記載がある。

八戸藩

通制

八戸藩の領内の行政区分は盛岡藩と同様に「通制」を用いた。

元禄元年(1688年)正月、領内の郷村に庄屋名主制度[17]を採用し、元禄7年(1694年)10月に町検断を庄屋に、肝煎を名主と改称した。


注釈

  1. ^ 盛岡藩の廃藩置県の折に課せられた70万両の納付は減免されており、藩の借金も盛岡に限らず1843年までは破棄、1844年以降の物は明治政府が国債3,000万円を起債し肩代わりするなど救済措置も見られた。

出典

  1. ^ 天正20年(1500年)7月27日付豊臣秀吉朱印状南部信直宛(盛岡市中央公民館蔵) (PDF)
  2. ^ 南部家第46代当主 「前田利家への恩義から歴代当主の名前には『利』をつけた」 〈週刊朝日〉”. AERA dot. (アエラドット) (20140523T070000+0900). 2019年9月7日閲覧。
  3. ^ 『弘前城築城四百年』長谷川成一著など
  4. ^ 平成・南部藩ホームページ”. www.tonotv.com. 2019年9月7日閲覧。
  5. ^ 菊池悟郎, 『南部史要』 , 272頁 (1911年).
  6. ^ 下斗米哲明 2022, pp. 182.
  7. ^ 『山鹿語類』、巻二十九
  8. ^ 松浦静山『甲子夜話』(正篇三十など)。
  9. ^ 刀 朱銘 延寿國時
  10. ^ 『藩史大事典』
  11. ^ 【いわての住まい】武家
  12. ^ (むつ市史) 近世編
  13. ^ 『むつ市史』、1988
  14. ^ 『岩手県史』
  15. ^ 文化7年11月15日条 藩日記
  16. ^ (むつ市史)近世編
  17. ^ (近世こもんじょ館)八戸藩の村役人制度-名主・大下書・田屋について
  18. ^ 「青森県史」資料編 近世篇 4 南部1盛岡藩
  19. ^ (岩手県博物館)北上川の舟運
  20. ^ (日本財団)郡山河岸と小操舟
  21. ^ 「嘉永慶応 江戸切絵図」(尾張屋清七板)
  22. ^ 『目黒筋御場絵図』(国立公文書館所蔵)
  23. ^ a b c d 『大間町史』
  24. ^ 「森嘉兵衛著作集 七 南部藩百姓一揆の研究(昭和10年(1935年))」 (法政大学出版局 1992出版)
  25. ^ (岩手県博物館)百姓一揆を禁じた制札
  26. ^ 工藤祐董著『八戸藩の歴史』八戸市、1999
  27. ^ 「吾妻鏡」文治5年9月17日条
  28. ^ 細井計、兼平賢治、杉山令奈「公儀御馬買衆と盛岡藩」『岩手大学教育学部研究年報』第61巻第2号、岩手大学教育学部、2002年2月、149-168頁、CRID 1390290699872295680doi:10.15113/00011437ISSN 0367-7370 
  29. ^ (岩手県図書館) 岩手の古地図 南部九牧之図
  30. ^ あきた(秋田県広報誌)通巻121号、1972年(昭和47年)6月1日発行
  31. ^ 『新編八戸市史 近世資料編1』八戸市、2007、426P
  32. ^ 八戸藩の範囲八戸市博物館
  33. ^ 岩手県の誕生 (PDF)岩手県立博物館だよりNo.101 2004年4月)






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