獅子王 (刀) 概要

獅子王 (刀)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/09 14:48 UTC 版)

概要

平安時代末期の大和刀工の作ともみられている。ただし、刀工の個名については諸説あり、作者不詳『古今銘盡大全』(慶長16年)、仰木伊織著『古刀銘盡大全』(寛政3年)、大西義方著『以呂波部類 古今刀剣銘盡』(文政10年)は豊後定秀、『享保名物帳』には備前実成と伝えるなど諸説ある[2]

「獅子王」とは刀身に付けられた「号」であり、刀身自体には銘はない。『源平盛衰記』によれば獅子王丸と呼ばれたともされる[2]1971年昭和46年)6月22日に拵(こしらえ、外装)と一括で重要文化財に指定された[3]。指定名称は刀身が「太刀 無銘」(たち むめい[4])、拵が「黒漆太刀拵」(こくしつたちこしらえ[5])である[注釈 1][3]。なお拵は刀身の附(つけたり)指定ではなく本指定である[3]

『田村三代記』の末尾には屋代本『平家物語』や『源平盛衰記』の「剱の巻」に相当する部分が挿入される[6]。古態を残す渡辺本『田村三代記』の「つるぎ譚」によると、鈴鹿御前の形見として三明の剣のうち田村丸利仁に託された大通連・小通連が田村に暇乞いをして天に登り、3つの黒金となったものを箱根の小鍛冶に打たせたものがあざ丸・しし丸・友切丸の3つの剣である[7][8]

平家物語』と『源平盛衰記』は、獅子王は都を騒がせたを仕留めた恩賞として天皇から源頼政に下賜されたとものであるとの伝承を伝えている[2]。この刀は頼政の子孫である但馬国竹田城城主斎村政広(赤松広秀)へと受け継がれたが、政広が関ヶ原の戦いにおいて鳥取城下を焼き払った事が原因で徳川家康に切腹を命じられた際、家康に没収された。

この後、獅子王は家康から頼政の子孫とされる土岐頼次へと与えられた。土岐家に代々伝えられた獅子王は、明治時代皇室へと献上されることでその手元へと戻ることになった。現在東京国立博物館に所蔵されているのはこの刀であるとされるが、福永酔剣は元々獅子王が天皇から下賜されたという経緯からこれは本来飾太刀であったはずだとし、武用刀である東京国立博物館の所蔵品は真物ではないのではないかとしている[2]

1871年(明治4年)に八田知紀が記した『薩隅日地理纂考』は、この土岐家のものとは別の獅子王の伝来について記している。頼政の子孫である大隅の旧族廻氏には鵺退治に用いられた金剛剣とその褒賞の獅子王が共に伝えられていた。1673年(寛文13年)、廻頼次はこの二刀を現代の鹿児島県霧島市福山にある宮浦神社へと奉納したとされる。ただし福永はこの金剛剣と獅子王について、真物とは認めがたいとしている[2]


注釈

  1. ^ 官報告示における指定名称(原文は縦書き)は「⎧太刀無銘
    ⎩黒漆太刀拵
    」と表記されている。
  2. ^ 黒漆の経年の変化によるものか、現状では光線の加減によっては茶色潤みに似た色味となっている。
  3. ^ 鞘及び柄に組紐を巻く「糸巻太刀」の様式が一般化したのは鎌倉時代に入った後のことであり、更に巻下地に錦布が広く用いられるようになったのは室町時代以降のことである。
  4. ^ 数々の日本刀の拵えの復元を手掛けている、鞘師であり日本刀外装研究家の高山一之による。

出典







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