牟婁郡 近世

牟婁郡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/23 03:28 UTC 版)

近世

所属町村の変遷は西牟婁郡#郡発足までの沿革東牟婁郡#郡発足までの沿革南牟婁郡#郡発足までの沿革北牟婁郡#郡発足までの沿革をそれぞれ参照
  • 旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。(403村54浦)
    • 後の西牟婁郡域(143村12浦) - 紀伊和歌山藩紀伊田辺藩[4]
    • 後の東牟婁郡域(167村6浦) - 紀伊和歌山藩、紀伊新宮藩[5]
    • 後の南牟婁郡域(77村14浦) - 紀伊和歌山藩、紀伊新宮藩
    • 後の北牟婁郡域(16村22浦) - 紀伊和歌山藩

近代

呼称

鎌田純一によると「ムロ」とは神のこもる地との意味であるとする[6]

和名類聚抄によると同名の地域が、大和国葛上郡牟婁郷(現:奈良県御所市室)に存在した。

古代の朝鮮半島西部(現:全羅道高敞郡霊光郡務安郡付近)には当時の倭人の活動圏内に牟婁と呼ばれる同名の地域が存在しており、日本書紀では百済への任那四県割譲事件(西暦512年)において四県のうちのひとつとして牟婁県の地名が記述されている[7]。また、西暦414年に建立された広開土王碑には、396年に広開土王倭国百済軍を破り、高句麗領とした地域として牟婁城・古牟婁城の地名が刻まれている。

脚注


  1. ^ 白浜町の旧瀬戸鉛山村の領域も含む
  2. ^ 下北山村を知る 奈良県下北山村オフィシャルサイト
  3. ^ 川崎雅史「紀南への道と官衙・寺」 和歌山県文化財センター 、2023年8月2日閲覧。
  4. ^ 紀州藩附家老水野氏領が慶応4年1月24日1868年2月17日)に立藩。
  5. ^ 紀州藩附家老安藤氏領が慶応4年1月24日(1868年2月17日)に立藩。
  6. ^ 笠原弘邦「熊野信仰の発展と東北」 みやぎ街道交流会、2020年7月13日閲覧。
  7. ^ 田辺市の三栖廃寺跡付近には同時代に築造された渡来人系氏族の古墳が存在する


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