村上吉充 村上吉充の概要

村上吉充

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 14:01 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
村上 吉充
村上吉充肖像(金蓮寺所蔵)
時代 戦国時代 - 江戸時代
生誕 不詳
死没 不詳
別名 通称:又三郎
戒名 晟清寺殿英中晟春
官位 新蔵人
主君 毛利元就輝元
氏族 因島村上氏
父母 父:村上尚吉
兄弟 吉充、吉忠、亮康、隆吉、尚末
乃美宗勝の妹
実子:なし
養子:景隆、吉亮(共に弟・亮康の子)
テンプレートを表示

生涯

因島村上氏能島村上氏来島村上氏に並ぶ瀬戸内海を支配した海賊衆で、父・尚吉の代より毛利氏に近い立場にあり、天文24年(1555年)の厳島の戦いの際、毛利小早川氏から加勢を求められ、重臣・末長景道率いる因島村上水軍を派遣し、小早川水軍の一翼を担い毛利方の勝利に大きく貢献した。

その後も毛利・小早川氏に属し、弘治元年(1555年)から弘治3年(1557年)にかけての防長経略では関門海峡を封鎖するなどの活躍をした。また、弘治3年(1557年)1月12日小早川隆景から新蔵人の官位を与えられた。大友氏との戦いがはじまると、永禄4年(1561年)の門司城攻防戦で乃美宗勝の指揮下で大友軍を撃退した。

天正4年(1576年)の第一次木津川口の戦いでは奮戦し織田水軍を壊滅させ、兵糧米を石山本願寺に運び込むことに貢献した。天正10年(1582年)に来島村上氏の来島通総が織田方に降った際にも毛利方に留まり、毛利輝元から周防国都濃郡内の400石、周防・長門の寺社半済の内の500貫などを与えられた。

吉充には子がなかったため、弟・村上亮康の子、景隆を養子に迎えたが早世したため、その弟の吉亮を後嗣に迎えている。

関ヶ原の戦い後、毛利氏の減封に伴って長門国へ移住したが、知行は1800石(2800石とも)しか与えられなかったため、当主の村上元充(吉亮の子)と別れ、因島へ戻り同地で没した。法名は晟清寺殿英中晟春[1]

脚注

[脚注の使い方]



「村上吉充」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「村上吉充」の関連用語

村上吉充のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



村上吉充のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの村上吉充 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS