村上吉継・乃美宗勝による伊予国平定
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「毛利氏の伊予出兵」の記事における「村上吉継・乃美宗勝による伊予国平定」の解説
同年4月頃には、大友氏が北九州へ進軍を開始、小早川隆景・乃美宗勝らは、そちらの対応にも追われることとなる。そのため、隆景ら毛利軍主力は土佐一条氏との最終決着がつかぬまま、乃美宗勝の弟の浦元信らを残して、安芸国に引き上げるに至った。そして隆景は6月頃に大友氏との戦いのため、北九州へと進出している。 その後も土佐一条氏は軍勢を伊予国に出兵させたままで、毛利氏との対峙を続けていた。宇都宮豊綱も、また大洲城に籠城して、河野氏と敵対していた。このような状況の中、8月に村上吉継が下須戒城を落とすなど、徐々に戦況は毛利・河野側に有利に動き始めたようで、土佐一条氏に従属していた長宗我部元親は村上吉継に戦勝祝いの書状を送っている。 同年11月、乃美宗勝は兵を集めて再度伊予国へと出兵して、宇都宮討伐に乗り出した。その結果、宇都宮豊綱は降伏して大洲城は開城となり、豊綱は毛利氏の捕虜となった。
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