日比谷焼打事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/27 07:37 UTC 版)
講和条約反対暴動の推移
9月5日、東京の日比谷公園でも野党議員が講和条約反対を唱える民衆による決起集会を開こうとした。不穏な空気を感じた警視庁は禁止命令を出し、警察官350人と丸太で公園の入り口を封鎖した。
しかし怒った民衆たちが日比谷公園に侵入。一部は皇居前から銀座方面へ向かい、御用新聞と目されていた国民新聞社を襲撃した。すぐ後には抜刀した5人組が内務大臣官邸を襲撃し、棍棒や丸太で裏門からも襲った。銀座からの暴徒と化した群衆も襲撃に加わった。そうして、東京市各所の交番[7]、警察署などが焼き討ち・破壊される事件が起こり、市内13か所以上から火の手が上がった[8]。
この時、日本正教会がロシアと関係が深かったことから、ニコライ堂とその関連施設も標的になり、あわや焼かれる寸前であったが、近衛兵などの護衛により難を逃れた[9]。また群衆の怒りは、講和を斡旋したアメリカにも向けられ、東京の駐日アメリカ公使館のほか、アメリカ人牧師の働くキリスト教会までも襲撃の対象となった[10]。
これにより東京は無政府状態となり、翌9月6日、日本政府は東京市および府下5郡に戒厳令[注釈 7]を布き[11]即日施行、近衛師団が鎮圧にあたることでようやくこの騒動を収めた[注釈 8]。この騒動により、死者は17名、負傷者は500名以上、検挙者は2000名以上にものぼった。このうち裁判にかけられた者は104名[13]、有罪となったのは87名であった。
なお、各地で講和反対の大会が開かれ、9月7日に神戸、9月12日に横浜でも暴動が起こった。
注釈
- ^ 戦費17億円は国家予算6年分。外債8億、内債・増税9億。
- ^ 後世から客観的に見ると、当時の藩閥内閣である第1次桂内閣の日露戦争への対応は評価される。[誰によって?]戦争継続の困難を把握して、ロシアへ決定的な勝利した中でアメリカ大統領に講和斡旋を働きかけ、1905年9月のポーツマス条約で大日本帝国の朝鮮支配と満洲進出の基礎を築いた[2]。
- ^ しかし、小村の交渉を伊藤博文などは高く評価した。また、内閣総理大臣(首相)の桂と海軍大臣(海相)の山本権兵衛は小村を新橋駅に出迎え両脇を挟むように歩き、爆弾等を浴びせられた場合は共に倒れる覚悟であったという。
- ^ 座長は野党憲政本党の河野広中。
- ^ のち関東大震災朝鮮人虐殺事件のとき東京地方裁判所所長。
- ^ 岡慶治は本郷教会の教会員[5]。関東大震災当時の浦和地方裁判所所長。
- ^ 緊急勅令による行政戒厳。
- ^ 戒厳令廃止は11月29日[12]。
出典
- ^ 江村 & 中村 1974, p. 288
- ^ "桂太郎内閣とは". 旺文社日本史事典三訂版. コトバンクより2023年1月7日閲覧。
- ^ a b c "日比谷焼打事件とは". 世界大百科事典第2版. コトバンクより2023年1月7日閲覧。
- ^ 日外アソシエーツ編『政治家人名事典』117頁、日外アソシエーツ、1990年
- ^ 佐々木啓子『婦人雑誌『新女界』の記事および執筆者の学歴・キャリアからみる知識人層の女子教育観と学校選択』。電気通信大学、2017年。
- ^ 永井和 "日比谷焼打事件と倉富勇三郎。
- ^ 新聞集成明治編年史編纂会 1936, pp. 487–492
- ^ 中嶋 2004, pp. 224–225
- ^ 中村 1996, pp. 191–194
- ^ 日本キリスト教歴史大事典 1988, p. 1164
- ^ 明治38年勅令第205号「東京府内一定ノ地域ニ戒嚴令中必要ノ規定ヲ適用スルノ件」(『官報』号外、明治38年9月6日、p.1)
- ^ 明治38年勅令第242号「明治三十八年勅令第二百五号及第二百六号廃止」(『官報』号外、明治38年11月29日、p.1)
- ^ 中嶋 2004, p. 225
- 1 日比谷焼打事件とは
- 2 日比谷焼打事件の概要
- 3 原因と結果
- 4 講和条約反対暴動の推移
- 5 被害にあった建物
- 6 外部リンク
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