斉昂軽便鉄路 駅一覧

斉昂軽便鉄路

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/08 12:51 UTC 版)

駅一覧

斉斉哈爾-大梅屯-五福瑪-昂昂渓

駅名については文献によって揺れがある。ここでは今尾恵介・原武史監修『日本鉄道旅行地図帳 歴史編成 満洲樺太』によった。なお、支線については路線そのものの経路が不明のため駅も不明の状態である。

接続路線

  • 斉斉哈爾:斉克鉄路→満州国有鉄道斉克線(のちの平斉線)
  • 昂昂渓:東清鉄道西部線→北満鉄路西部線→満州国有鉄道浜洲線

斉斉哈爾駅は斉克鉄路→満州国鉄の斉斉哈爾駅とはかなり離れた市街地の南端部に位置していたため、乗換には市街地を南北に突っ切る必要があった。

列車

1918年当時の資料によれば、列車は全て混合列車で、機関車の牽引力によって決まっていた。大きな機関車の場合は客車4両と貨車3両の7両編成、小さな機関車の場合は客車3両と貨車1両の4両編成であった。

1926年には混合列車という点では一緒であるが、大きな機関車の場合は10両編成、小さな機関車の場合7両編成に両数が増えている。旅客列車と貨物列車を分けて運転することもあった。

なお当線は等級制を採っており、一等車から三等車まで存在したが、この列車編成において各等級の客車がどのように編成されたかは不明である。

ダイヤ

長いこと東清鉄道→北満鉄路の勢力範囲内にあって日本の関知するところでなかったため、時刻表へ時刻の掲載は北満鉄路が満州国鉄に接収された1935年しか確認されていない。それ以前の記録もわずかに外務省の行った調査報告書に記載があるのみである。

1926年当時のダイヤは時刻不明ながら、運転本数が分かっている。それによるとダイヤは閑散期と繁忙期に分かれており、閑散期は混合列車が2往復運転されるのに対し、繁忙期は客貨分離されて旅客列車が2往復と貨物列車が3往復運転されていた。

1935年10月のダイヤでは、5往復列車が設定されているものの、毎日運転されるのはうち2往復のみで、1往復が日・火・木・土、2往復が月・火・木・土のみの運転であった。つまり5往復全部運転されるのは火・木・土のみで、あとは日曜が3往復、月曜が4往復、水・金曜が2往復であった。

始発は斉斉哈爾発が6時・昂昂渓発が8時30分、終発は日・水・金の場合斉斉哈爾発が12時50分・昂昂渓発が15時20分、月・火・木・土の場合斉斉哈爾発が17時20分・昂昂渓発が19時30分で、曜日によって運行列車が変わるという変則的な運行形態のために、日によっては昼過ぎで運行が終了するという状況であった。所要時間は1時間15分から25分であった。

運賃

外務省の調査報告書によれば、運賃は当初元建てではなく「江銭」によっていたが、相場が暴落して営業収支に響くようになったため、1913年10月1日より元建てに変更している。ただしこの「江銭」が何であるかは不明である[5]

1918年には斉斉哈爾-昂昂渓間の運賃が三等6角、二等1元2角、一等2元であった。貸切運賃もあり、三等車片道12元、二等車片道20元、一等車片道26元、サロン車片道44元であった。貨物の場合は有蓋貨車片道9元、無蓋貨車片道8元であった。

1921年には斉斉哈爾-昂昂渓間の運賃は三等1元、二等1元6角、一等2元3角となる。貸切運賃は定期列車の一部を貸し切る場合と臨時列車とする場合とに分かれており、前者の場合は三等車30元・二等車35元・一等車40元・サロン車60元、後者の場合は三等車60元・二等車70元・一等車80元・サロン車100元であった。貨物の場合は有蓋貨車14元、無蓋貨車13元である。

1925年には斉斉哈爾-昂昂渓間の運賃は三等8角、二等1元、一等1元4角と値下がりしている。貸切運賃も大きく下がっており、定期列車の一部を貸し切る場合は三等16元・二等20元・一等25元・サロン車35元、臨時列車とする場合は三等35元・二等40元・一等50元・サロン車60元であった。またこの時期には一等・二等合造車があり、この車輛の一等部分を定期列車で貸し切る場合は8元であった。貨物は有蓋貨車7元5角、無蓋貨車7元とこれも大幅値下げとなっている。


[ヘルプ]
  1. ^ 資本金の金額や資金調達先の内訳に関しては、文献によって記述が異なり一定しない。ここでは外務省の報告書によった。
  2. ^ この時の終着駅の駅名は不明である。「昂昂渓」であったとする説、地名の「紅旗営子屯」を名乗ったとする説があるが確証はない。
  3. ^ 駅改称の時期ははっきりしないが、1918年当時の文献では「斉斉哈爾」のままなのに対し、1926年の年報では「昂昂渓」となっていることから、この間の改称と考えられる。ただし翌1927年の年報では「斉斉哈爾(昂昂渓)」となって再び旧称が顔を出しており、確定が難しい。
  4. ^ 当線・中東鉄路の昂昂渓駅とは別駅。1934年12月20日に「東昂昂渓駅」と改称している。なおこの連絡線、のちの満州国鉄楡樹線はこの当時行き止まりの盲腸線であったが、1936年8月1日に東昂昂渓駅の廃駅と入れ替えに昂昂渓駅まで開通している。
  5. ^ 当時中国では貨幣制度が乱れに乱れており、昔ながらの「銀錠」と呼ばれる秤量貨幣政府の発行した銀貨が持ち越されていたほか、中央銀行・省営銀行・民間銀行がめいめい勝手に紙幣・硬貨を発行、さらに外国の貨幣が流入するなど、実に数十種類の貨幣が出回っていた。
  6. ^ 当初は3両あったとの記録もあり、これが正しければどこかの時点で廃車となったと思われる。


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