戦艦 装備・船体

戦艦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/07 01:03 UTC 版)

装備・船体

主砲と砲弾

42口径15インチ連装砲塔
42口径15インチ連装砲の装填機構
42口径15インチ砲弾

主砲は戦艦を戦艦たらしめる最重要の武装である。敵艦を圧倒するために大きく高威力の砲弾をより遠くへより正確に発射する必要がある。砲の大きさは、メートル法で設計製作された大和型であれば「45口径46センチメートル砲」、ヤード・ポンド法で設計製作されたアイオワ級であれば「50口径16インチ砲」と表現するのが正確である。「○口径」が砲身の長さを表す口径長(後述)、「○センチメートル」または「○インチ」が「砲身内径≒砲弾直径」である。

メートル法で設計製作された砲であっても、砲身内径を、インチで表現して切りの良い数字に近づけるのが通例。例えば、メートル法の提唱国であるフランスの戦艦主砲は当然にメートル法で設計製作されているが、ダンケルク級は33センチメートル(約13インチ)、リシュリュー級は38センチメートル(約15インチ)である。

砲身の長さの表示については、「○口径」(○は砲身長を砲弾の直径で割った数字)と表し、これを口径と呼ぶ。砲弾や発射薬などの諸条件が同じ場合、より長い砲身を用いて撃ち出す方が砲口初速を向上させるうえで有利となる。

1900年頃に各国海軍が有していた前弩級戦艦は、35口径12インチ(砲身長は420インチ=約11メートル)程度の主砲を連装砲塔に収め、艦の前後に1基ずつ(計4門)装備していた。その後、戦艦主砲は逐次巨大化し、日本の大和型の45口径46センチメートル(46センチメートル=約18.1インチ)砲(砲身長 20.7メートル)、アメリカのアイオワ級の50口径16インチ(16インチ=約40.6センチメートル)砲(砲身長800インチ=約20.3メートル)に達した。

発射する砲弾は、敵大型艦の強力な装甲を貫徹できるよう徹甲弾が主であった。徹甲弾は、弾体の大半が硬い特殊鋼でできており、内部の炸薬の量は少ない。初期には炸薬を持たない実体弾も用いた。徹甲弾の信管は砲弾が敵艦の装甲を貫徹した後、敵艦の内部で炸裂する遅発式である。砲弾重量は12インチ砲で400kg程度、16インチ砲で1トン前後、大和型の46センチメートル砲で1.5トン程度である。この砲弾を、1門辺り毎分2発程度、砲口速度800メートル/秒程度で、2万メートルから3万メートル先の敵艦に向けて撃つ前提であった[注釈 5]。遅発式の弾が水面に着弾すると水中に潜った後に爆発し高い水柱を生じ、着弾点の観測に用いた。

徹甲弾の他に、無装甲の目標(駆逐艦、輸送船、地上目標など)を射撃するための榴弾も搭載した。榴弾は、内部の炸薬が徹甲弾より多く、命中と同時に作動する瞬発信管を装備する。なお、日本海軍は戦艦の主砲を対空戦闘にも使う想定で、零式通常弾三式通常弾といった特殊な対空砲弾を開発し、太平洋戦争の実戦で使用した。日露戦争時の日本海軍は対戦艦射撃に榴弾も併用することにより一定の効果を上げた。

大砲の威力は、砲弾の材質・構造・炸薬量が同等であれば、撃ち出す砲弾の重量と速度により決まる。砲弾の重量を決定するのは(砲弾の材質以外では)、砲弾の形状が相似であれば口径によって決まる。砲弾の形状がより長ければ、同一口径でも重量が増える。砲弾の速度を決定するのは、装薬の量と口径長である。口径長が大きければ、より長時間砲弾に運動エネルギーを与えるので、装薬の量が同じでも砲弾速度はより速くなる。ただし技術的限界を超えて装薬量を増やすと、砲身のブレによる命中率低下を招く。一般には口径が戦艦の主砲の威力をはかる基準値とされ、口径長は45口径前後で装薬量にも大差なく各国とも横並びであった。しかし例外もあり、第一次世界大戦までのドイツ戦艦は、装薬量を増やして砲弾速度を上げたため、口径ではひとまわり大きな英国戦艦の主砲と同等と言われていた。一方の英国戦艦は口径長の増大により対抗したこともあるが、結果として英国製50口径12インチ主砲は砲身のブレが大きく欠陥品とされる。第一次世界大戦後では、主砲の射程距離の延伸により、砲弾速度は重要な要素ではなくなった。長時間空中を進む砲弾の速度は空気抵抗により減少し、いくら高速で撃ち出しても最終的な砲弾速度には変わりがなくなったからである。むしろ山なりの砲弾が落下に転じた際の速度は砲弾重量によって決まるため、ほぼ砲弾重量のみが主砲の威力を決定することになった。第二次世界大戦時の米国戦艦の16インチ砲の砲弾は、長い形状によって重量を増しており、45口径砲は他国よりも砲弾速度は低速、50口径砲は他国の45口径と速度は同等であった。

副砲と高角砲

前弩級戦艦の時代は、近距離砲戦が主体であり、発射速度に優る多数の副砲が役に立った。

水雷艇が登場すると、これに対処するために副砲よりもさらに小型で、取り回しのよい砲を搭載した。また主砲は4門搭載する時代がしばらく続いたため、各国は戦艦の砲力拡大の際には、副砲を大型化、あるいは副砲より大型で主砲より小型の中間砲を装備する例がみられた(準弩級戦艦)。

その後、弩級戦艦の始祖たる「ドレッドノート」において、主砲の門数を10門に増加させた。そして多数の主砲を艦橋からの一元的な射撃管制により、遠距離砲戦での命中率を高め、搭載砲を主砲と対水雷艇用の7.6cm(3インチ)速射砲とし、それ以外の砲を廃止した。しかしながら続いて弩級戦艦を建造した他国海軍は、副砲を残した。弩級戦艦以降の副砲は、戦艦同士の近距離砲戦を目的としたものではなく、水雷艇、それより発達した駆逐艦などの、小型艦艇への対処を目的としたものとなった。主砲は旋回速度、単位時間あたりの射撃速度が低く、小型高速の艦への対処が困難だったためである。イギリス海軍も駆逐艦への対処のため、対水雷艇用であった速射砲を大型化し、事実上の副砲の復活となった。

前弩級戦艦時代から超弩級戦艦の時代にかけて、戦艦の副砲は、舷側にケースメイト配置され側方を指向する設計が多かった。日本では長門型までがこの形態である。一方で準弩級戦艦においては、中間砲は砲塔形式とし、舷側に配置するのが通例であった。1920年ごろより、副砲についても中間砲と同様に、連装または3連装の砲塔形式とし、2基を高い位置の船体中心線上に、残りを低い甲板上の側面に配置することで前方・後方・側方いずれに向けても一定数の砲門数を指向できる設計となった。ノースカロライナ級・大和型などがこの形態である。他に舷側に砲塔形式で前後方から2段の背負式配置とすることでやはり前方・後方・側方いずれに向けても砲門数を指向できる設計がキング・ジョージ5世級などに採用された。

アメリカが1934年に制式化した38口径5インチ砲(12.7cm砲)は、対艦射撃にも対空射撃にも使える両用砲だった。以後のアメリカの戦艦は副砲と高角砲をこの5インチ両用砲に一本化し、連装砲塔に納めて搭載した。イギリスも1940年に50口径5.25インチ両用砲(13.3cm砲)(en:QF 5.25 inch gun)を制式化し、アメリカと同じく副砲と高角砲を統合して、キング・ジョージ5世級に連装砲塔で搭載したが、副砲としての性能には問題がなかったものの高角砲としては速射性に欠けるなど欠点の多い砲だった。日本は両用砲の開発に遅れを取り事実上開発に成功しなかったので[要出典] 副砲と高角砲の両方を装備し続けたが、大和型の15.5cm三連装副砲に零式通常弾・三式弾を組み合わせての対空射撃は効果的で速射性も良かったと用兵側には好評であった(しかし艦隊全体での絶対的な高角砲の門数が不足しており、また近接信管が開発されず旧来の時限信管しか使用しなかったことも日本海軍艦隊の防空能力の不足につながった)。

一方高角砲については、1920年ごろまでは航空機が未発達で戦艦の脅威になるとは全く考えられていなかったため、高角砲の搭載はされなかった。1920年ごろより高角砲の搭載が始まったが、この頃は7.6cm単装高角砲を4門と少威力・短射程の高角砲を少数積むのみであった。1930年ごろより次第に航空機の脅威が考慮し始められ、長門型では改装時に12.7センチ連装高角砲4基8門を搭載した。ヴィットリオ・ヴェネト級は新造時より9cm単装高角砲12門を搭載、ビスマルク級では10.5cm高角砲連装8基16門と3.7cm高角砲連装8基16門を搭載した。アメリカが高角砲に替わり5インチ両用砲を装備したのは前述のとおりだが、その門数としては1941年就役のノースカロライナ級で連装10基20門であった。

第二次世界大戦が始めるとすぐにタラント空襲・真珠湾攻撃・マレー沖海戦と航空攻撃によって戦艦が撃沈される事態がたてつづけに起こったため防空能力の強化が考えられ、旧型の戦艦では副砲を降ろして高角砲を追加する改装が行われた。しかし改装を行なっても金剛型で12.7cm砲12門に留まるなど、新造の時点で対空装備が重視されていたノースカロライナ級・サウスダコタ級・アイオワ級の5インチ両用砲20門には劣った。

甲鉄板(装甲)

魚雷が命中して内側に押し込まれた戦艦オクラホマの舷側装甲(真珠湾)

飛来する敵弾をはね返す目的で装備される鉄板。自艦の搭載する主砲弾の攻撃に耐えられるだけの装甲を施すことが求められていた。艦の水線部近辺に垂直(後に傾斜して装備する装甲も生まれた)に装備する水線甲鉄と水平な甲板に装備する甲板甲鉄があり、どちらも特殊鋼でできている。甲鉄に求められる重要な性能は主に次の2点である。

  1. 敵弾の侵入を阻止する硬さ
  2. 衝撃を受けても割れにくいこと

これらは鉄鋼にとって相反する性能であり、従来技術では1種類の材質では達成が困難であった。そこで1890年代までは日本の初代戦艦「富士」などが、硬いがもろい鉄板を外側に、粘り強いが柔らかい鉄板を内側に張り合わせた「複合甲鉄」を用いていた。1890年代にアメリカ人のハーヴェイがニッケル鋼の表面に浸炭処理を施し、表面のみ硬化させて耐弾力を飛躍的に強化した「ハーヴェイ鋼」(ハーヴェイ・ニッケル鋼)を発明した。富士級の水線甲鉄は「複合甲鉄」で457mmあったが、敷島級は「ハーヴェイ鋼」、三笠は、クルップ鋼を使い 229mm に半減でき、耐弾力は富士を上回った。その後、甲鉄は順次改良が施されたが基本的には表面浸炭処理技術を用い続けている。

水線甲鉄の厚さは主砲の強化に従って増加し第一次世界大戦直前で255-305mm、第一次世界大戦期で305-330mm、「大和」では 遂に410mm に達した。一方、甲板甲鉄は第一次世界大戦まであまり問題にされず50-100mmだった。その後、日露戦争〜ユトランド海戦の損害や戦後の実艦を用いたテストで、遠距離砲戦時の艦水平部への着弾が大きな損害につながることが判明し、第二次大戦前に建造された艦は甲板部の甲鉄を強化している。独が120mm、米英で150mm前後、仏伊で200mm未満、大和では200mm強の厚さがあり、砲弾だけでなく航空機による急降下爆撃にも十分な防御力を持っていた。しかし、甲板防御は水線防御に比べて広範囲を覆う必要性があり、装甲を水平に貼ることによる重量増加が懸念された。そのため、水線部の装甲を内側に傾斜させて装甲を貼る傾斜装甲方式が開発され、列強の多くはこぞって新戦艦に採用して重量の軽減化に努めたが、イギリスとドイツは独自の理論に基づき、イギリスはネルソン以降から再び垂直装甲に立ち帰り、一方ドイツは垂直装甲に固執した。

また、第一次世界大戦以降では、重量問題から艦全体に十分な装甲防御を施すのは困難であり中庸で不十分な装甲厚では無駄が多いとして、主要部分のみ十分な装甲厚を配分する「集中防御方式」が戦艦の防御の標準となった。ただしドイツ海軍の戦艦は独自の理論により、全体防御を採用し続けていた。

自艦の主砲弾に耐えられる装甲は戦艦の設計条件とされ、この定義を満たさず防御力を妥協して速力を高めた艦は巡洋戦艦と呼ばれる。ただしこれは結果論による定義であり、元来の巡洋戦艦は巡洋艦から発達したものである。逆に若干であるが防御力を妥協して速力を高めた戦艦も存在し、現実には「自艦の主砲弾に耐えられる装甲」という定義は絶対的なものではない。

水中防御

機雷や魚雷等による艦の喫水線以下に対する攻撃からの防御を「水中防御」と呼び、水面下の船体側壁を破られることで艦内に大量の水が浸水し、浮力や重量バランスを失い沈没や転覆したり、船体の傾斜により給弾できず継戦不能になるような事態を防ぐことである。このため、フランスの造船士官ルイ=エミール・ベルタンは舷側水面下部分に「細分化された水雷防御区画を設け水密構造」にし、更に「囲堰と呼ばれる水線下防御隔壁装甲を設けることにより浸水をその区画だけに極限する方法」を1880年代に発表し、以降の各国戦艦に取り入れられ用いられている。後にこの水密区画の一部にあらかじめ液体を満たして衝撃を和らげながら浸水による重量不均衡を避ける方法も考え出された。

それまでほぼ無防備であった、水中爆発に対する防御用の装甲(水雷防御隔壁)を備えたのは、これもフランスで建造されたロシア戦艦ツェサレーヴィチが嚆矢であるとされている。当時の戦艦の多くは防護巡洋艦の甲板防御を取り入れており、水線近辺の位置に装甲を施した防御甲板を備え、その端を斜めに折り曲げて舷側装甲の下端に接続させていた。ツェサレーヴィチはこの斜め部分を真下に折り曲げて艦底部まで伸ばし、水中爆発に対する防御隔壁としている。

水中爆発による被害は、衝撃波、水圧、爆発による破片によりもたらされる。水中防御はこれらの被害を防ぐ事を目的としており、外板(爆発地点)から隔壁までの距離を十分に取り、その間に空虚部と燃料庫(石炭庫や重油タンク)を層にするなどして威力を減衰させる事を意図している。 防御方式には列強各国で特色があり、アメリカ合衆国はテネシー級以後、米国戦艦に採用された「多層水雷防御方式」は防御区画を何層にも設け、液体を満たした方式である。フランスはダントン級6番艦「ヴォルテール」以後から水密区画に半固形物を充填して被雷時の衝撃と水圧から隔壁を守る理想的な方式等が開発されて実戦で有効性が証明されていた。他の国でも独自の理論により開発を行っていたが、工作技術の未熟さや理論倒れのために効果的な防御力が得られなかった。また、戦艦は改装時に増大した重量で喫水線が下がるのを防止するため、舷側にバルジを装着される事があるが、バルジには浮力維持と同時に、水雷防御強化の意味合いもあった。

間接的防御として、浸水による転覆を防止するため、艦内各所への注排水装置が装備されて行った。これは浸水を排水するだけでなく、浸水で傾斜した艦の反対舷の空所に意図的に注水してバランスを保つもので、一例として、ユトランド沖海戦時に被雷により艦首が沈降し危機に瀕したドイツ巡洋戦艦ザイドリッツは、艦尾への注水によりどうにかバランスを保ち、沈没寸前ながらも港にたどり着いている。

「ドレッドノート」の登場前や第一次大戦時代の戦艦は、機雷への触雷や魚雷攻撃であっけなく沈没した艦が多いが、設計・造艦当時は元々機雷や魚雷の知見が少なく、これらの新兵器の急速な性能向上がこれらの戦艦の設計時の想定を超えていたといえる。その例として、日露戦争の初期に日本の「八島」と「初瀬」、ロシアの「ペトロパブロフスク」が機雷に触れて沈没している。魚雷などの爆発力は艦の外板から内部の防御装甲板までの距離の3乗に比例して弱くなるため、艦幅の大きい方が水中防御を施す上で有利となる。アメリカのサウスダコタ級が前級のノースカロライナ級より艦幅を大きくした理由はこの点にもあるとされている。

また砲弾に対する防御とは異なり、1920年代なかばまでの建艦常識では水中防御では分厚い鉄板は必ずしも必要ではなく、30-50mm程度の装甲でよいとされていたが、日本海軍はワシントン海軍軍縮条約により廃艦となったが進水は済ませるほどに建造が進んでいた戦艦「土佐」を実艦標的とした1924年の砲撃実験によって、艦の手前で着水した砲弾が水中を直進して艦体に命中し大きな被害を与える水中弾効果を確かめ、これに対する防御として水線下にも装甲を延長している。なお、水中弾効果はアメリカ海軍も1935年頃に実験によって同様の効果を確認し[1]、これにより戦艦サウスダコタ級以降の米戦艦は水線下防御の観点から舷側装甲の一部を水線下から艦底部まで伸ばして水中弾に対応している。しかしノースカロライナ級以前の米戦艦に水中弾防御はなく、英独仏伊の新型戦艦も水中弾に対する防御を持たなかった。

戦艦時代の後期には、装甲も含む水密鋼板の取り付けをリベット工法から溶接工法に切り替える(当然水上部分にもあった)時代の動きがあったが、その適用には各国の基礎工業技術力や方針による部分があり、旧日本海軍は平賀譲のリベット工法主義(と中央隔壁主義)により、多くの戦艦を航空魚雷の被弾による水密喪失・浮力喪失・傾斜転覆で失っている[独自研究?]

機関

「ドレッドノート」以前の戦艦(前弩級戦艦)は、蒸気機関車と同じ構造の蒸気レシプロ方式であったが、「ドレッドノート」以後は一部の例外を除き蒸気タービン式を採用した。ドイツのポケット戦艦はディーゼル機関だった。第二次世界大戦前に日独で戦艦へのディーゼル機関採用の検討があったが信頼性や開発能力の関係で実現しなかった。

アメリカ合衆国は弩級戦艦以後にも一部の艦にレシプロ機関を採用していたが、この当時のタービン機関は燃費がレシプロに及ばなかったためである。その後の1920年代には蒸気タービンで発電機を回し、電気モーターでスクリューを回すターボ・エレクトリック方式によって、巡航時の蒸気タービンの燃費の悪さを改善しようとした試みがあった。この後、アメリカとフランスは、高温高圧の蒸気を生み出す高圧ボイラと高速回転するタービン軸を歯車でスクリュー・プロペラに適した回転数まで減速するギヤード・タービンの組み合わせで、ディーゼル機関に迫る高燃費のタービン機関の開発に成功した。イギリスとイタリアもギヤード・タービンは実用化していたが、燃費が悪いために航続距離が制限され、米仏に遅れをとった。

日本はイギリスで建造された金剛型巡洋戦艦がイギリス製のギヤード・タービンを採用し、扶桑型と伊勢型でもイギリス製をライセンス生産したギヤード・タービンとしたが、取り扱いに難があったため国内で改良を重ね、長門型以降は国産ギヤード・タービンを搭載、金剛型以降も改装時に換装している。


注釈

  1. ^ 「アイオワ」は1958年に現役を退いたが、ロナルド・レーガンの掲げる「力による平和」戦略の一環として生まれた600隻艦隊構想のもと、同型艦とともにミサイル艦として近代化改装を受け、1984年に現役復帰を果たした(2006年除籍)。
  2. ^ ジェーン海軍年鑑ではロシア海軍の運用するキーロフ級原子力ミサイル巡洋艦がその規模から巡洋戦艦に類別されている
  3. ^ ほかに浮き砲台に装甲を施した装甲艦も誕生したが、これは航海用ではなかった。
  4. ^ 15kmの射撃で落下角(水平と成す角度)がおよそ15度となる。
  5. ^ 第二次世界大戦において、2万メートルを切る「近距離」での戦艦同士の砲撃戦の例もある。デンマーク海峡海戦において、巡洋戦艦フッドが、戦艦ビスマルクと約1万4千メートルで交戦し、ビスマルクの38センチメートル砲弾によって撃沈された戦例など。
  6. ^ 海軍休日時代(1922〜1936年)の世界七大戦艦のうち長門型の速力26ノットは最速だった。対外的にはこれを秘匿し23ノットと発表し、高速戦艦としての知名度は低い。
  7. ^ レキシントン級巡洋戦艦はCCを用いていた

出典

  1. ^ (「世界の艦船」1999年8月号P151)の記事
  2. ^ 週刊 栄光の日本海軍パーフェクトファイル No.31p.22
  3. ^ 近代戦艦史(世界の艦船1987年3月増刊号・海人社)p181 など






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