岩村信二 思想的遍歴

岩村信二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/19 22:44 UTC 版)

思想的遍歴

1927年(昭和2年)岩村はめぐみ幼稚園の第一回の卒業生である。幼少時代に特に目だった思想をもってはおらず、父母の牧師仕事を見ながら自分も牧師になりたいと思っていたくらいであった。小学校5年の時に信仰告白をする。その時、一生の仕事として牧師をすること、その為に必要な教養を身に着けようと考えてた。牧師としての教養ために、話し方、聖書の勉強を極めること。その他、親睦会でのゲームを指導、手品などにも打ち込んでいた。

旧制府立高等学校時代に、ある先輩より勧められ哲学研究会に入会。そこで勧められライプニッツを勉強し始める。[4]さらに、ギリシャ哲学に興味をもつことになる。ギリシア哲学とは、キリスト教神学、ユダヤの思想とギリシャの哲学が総合されてできたものだからである。

当時、東京帝国大学の西洋哲学科の主任教授・出隆はクリスチャンで、その出隆を慕って東大の哲学科に入った。主としてギリシア哲学、それも有神論的なプラトンの哲学を専攻することになる。

東大に入った1941年(昭和16年)12月には太平洋戦争が始まった。1943年(昭和18年)12月1日に学徒出陣で相模原市の通信隊第1連隊に入隊する。

学徒出陣の2年前、「いつまでこんな勉強を続けていられるのかと、切羽詰まったような気持ちで一所懸命に勉強した。論文は、「プラトンの神の概念、それとキリスト教とキリスト教の神とどう違うのか」にねらいを定めて、勉強を始めたのである。

終戦後、復員すると実家の古い教会は空襲で焼失していたが、現在地の池上の2000坪ある土地に移ることができた。

1946年(昭和21年)1月に大森めぐみ教会から招聘されて伝道師に就任。そして、結婚をして家族を持つ。

宗教哲学

アンドーバーニュートン神学校[5]の校長からのスカラシップ(奨学金)のニュースを叔父の小崎道雄を通して聞き、応募して留学することになった。目的は、学位と牧師の資格を取得することであった。

1949年(昭和24年)から1953年(昭和28年)まで4年間アンドーバーニュートン神学校とハートフォード神学校と二つの神学校に学んだ。その間、Ph.Dを取るため並行してハーバード大学でも聴講したが、ハーバードの神学が無神論に偏っていたため、半年で中断することとなった。

また、牧会学のDabny先生の言葉で、「牧師は、一つの分野に専門になるより、幅広く世の中の事に興味を持ち説教に用いると一般にも判りやすい」と言われたことは、岩村にとって生涯忘れる事ができない言葉になった。

二つの神学校で宗教哲学を専攻し、論文もアンドーバーニュートンでは「宗教における真理決定の基準」の問題にとりくんだ。

例えば、長い教会の歴史の中で何回か激しい論争があるが、カルヴァンの「だれが座れるか座れないか、全部神の予定の中にある。」それに対して、「いいえ、そうではない。それでは運命論になってしまう、人間の自由、選択の自由がある、信仰する自由がある。」と言ったアルミニウスとの二人の論争がある。論争の時にどちらが正しいかを決定するのが宗教哲学で、真理を決定する基準となる。結局独断主義になってしまう、ドグマ主義対プラグマティズムの対立になり結論はでない。両方が向き合うその間における、研究をしたのが最初の論文で神学士(Bachelor of Divinity)を得た。

2年後、ハートフォードに移り、バルト神学の中でも比較的柔軟で宗教哲学的なエミール・ブルンナーを選んだ。論文は「ブルンナーにおける信仰と理性」を取り上げ神学修士論文とした。

宗教哲学を学び、アメリカの牧会での教会のあり方について学んだが、日本の教会伝道師を務めるなかで宗教哲学に違和感を感じる。青年達を指導し、説教をする機会があるが限界を感じる。哲学は見て考え、非常におもしろいが、その考え方を実践し、そして人間を教育することの方が大事ではないかと考えた。そこで、哲学より父親がやっていた宗教教育(キリスト教教育)に打ち込むことになり、考え方が変わっていった。それが、最初の方向転換であった。

宗教教育

さて、牧師になり教団の教育委員会に招かれて委員になり、やがて教育委員長になる。岩村は、教育委員会の中にある研究委員会の委員長として出会った学者、牧師との交わりが非常に楽しく有意義であったと述懐している。例えば、高崎毅、小林公一、松川成夫、三浦正、心理学の津守真、神学者の北森嘉蔵、家族社会学の森岡清美、性教育の奈良林祥らと研究し合った。

ある年、文部省の「望ましい人間像」、「理想的人間像」とはどんなものか研究して出すよう要請があり、教団もそれに応じて、「理想的なクリスチャン」、「キリスト教的人間像」をテーマとして約3年も議論をし、岩村がこれをまとめて出版した。その時に思いがけなく出た副産物が、キリスト教教育の目的であり、それは「クリスチャンパーソナリティを作ることにある」との結論に達した。それ以来、パーソナリティというものに非常に興味をもつようになった。別の言葉で言うなら、父清四郎の時代には宗教教育といえば、幼児の心理学が主だったが、信二はそれを拡大し、(1)バルト神学によって教会論的な基礎を与え、(2)幼児の心理学だけでなく、ゆりかごから墓場までの全年齢層の教育に及んだ。もう一つの特徴として、キリスト教界で初めて性教育に及んだこと、そして、性のモラル、婚前性交と産児制限、同性愛といったモラルに聖書的基礎を与えたことなど、単に理論の追求にとどまらず生涯における実践的なモラルを提唱した。

同時期の1958年(昭和33年)にNCCで「結婚、家庭問題」に入って、結婚教育、家庭教育を専攻するようになる。キリスト教教育には4つの分野があり、教会でなされる「教会教育」、学校でなされる「キリスト教学校教育」、それから「キリスト教社会教育」と「キリスト教家庭教育」である。ところが当時キリスト教家庭教育が大変遅れていて、何から勉強すればよいのか皆目検討がつかなかったが、幸いWCCが主催して東南アジアキリスト教で、 結婚、家庭教育セミナーを開くことになり、日本代表として、1958年タイのチェンマイの神学校を会場とした会議に参加した。全体で30人位のアジア人の中で、ただ一人の日本人として、初めてキリスト教家庭教育、結婚教育というものについて、全体のカリキュラムを知ることが出来た。講師はデイヴィッド・メイス[6]一人で午前中3時間講義を続け、月曜から土曜まで、そのノートは膨大なものになった。午後は、Library hourで約100冊くらいの新しいキリスト教結婚、家庭教育の本を読まされた。夜は各国の結婚事情、家庭事情について、広く東南アジア全体の家庭事情を知ることもできた。

パーソナリティ論

その読書の中でゴールドン・オルポート(ハーバード大学)という心理学の学者の本に一番心惹かれた。それまでの心理学は単に人間関係、人間の性格、感情の動きということが中心だったが、オルポートだけは、「それも大事だが、その前にまず信仰で、どういう信仰を持っているかでパーソナリティの性格が決まる。」と述べていた。これは日本では聞いたことがなく、日本の心理学ではほとんど信仰ということを問題にいれていなかった。しかし、考えてみれば、どういう信仰を持っているかがとても重要で、信仰の深い人、浅い人、信仰を持たない人では、人柄が違ってくる。信仰というのは非常に大事で、これがパーソナリティのトップにある。その下に人生観、世界観、価値観という広い見方があり、その下に知識、その下に感情、そして、一番下に体質、体に密接した感覚的な情、衝動など、その下に無意識があるというのだ。

人間は大変広く、一種の人間学、人間全体、そういうものがある。特に聖書において人間をどう観ているのか、人間の成長、未熟から成熟へということ等、パーソナリティについて盛んに教会で語るようになる。このパーソナリティという見方から広く、人類の歴史、人類の発達へ考えを進めることになる。

人類の発達は未熟なところから中世、近代へ発達してくる、これは一種のパーソナリティの成熟への発達とよく似ている。民主主義は成熟したパーソナリティであると言える。日本は、戦後、その民主主義を国の方針とした。一方、日本の家庭問題、例えば、嫁と姑、考えると非常な運命的な血に重きをおく考え方である。「あなた方は、親子の関係と夫婦の関係とどちらが強いのか」と質問するとみな困った顔をする。親子は血の関係で、夫婦は他人であるけれど、契約により夫婦になっていく。うまくいっている間はよいが、ひとたび問題がおこると結局、婿さんは自分の妻より、血の関係の親の方についてしまう。そういうことで日本の家族の中で一番戦わなければならないのは、この血の問題を清算して、新しい原理に立たなければならないということであった。

第二の回心

しかし、岩村は、なかなか新しい原理がみつからなかった。大森めぐみ教会は、元日本組合基督教会に所属しており、組合派教会(Congregational church)[7]は、古いイギリスの国教的考え方に反して、個人の自由、信仰の自由を唱えるものが集まり、契約により教会を創った者の集団である。そこから近代社会、近代的教会ができる。この話を突き詰めると、岩村自身の信仰があやしくなった。確かに自分は信仰があると思っていたが、それは非常に古い血に基づいたものだった。自分の父、あるいは祖父がクリスチャンだからという旧約的な信仰であって、本当に自分の責任において神を信じる、選び取るということをしてなかった。そして聖書講義では、例えば、婦人会ではヘブル人への手紙、高校生会ではローマ書をずっと講義した。この二つの書物はつきつめると古い血による信仰はだめだと。アブラハムの信仰を受け継いだイスラエル民族はみなもう、血族的に選民だというのは古い。新しい契約をしなければだめだと。人間はなかなか契約を継続することが難しい。しかし、神と人間の契約の仲保者、保証人として主イエス・キリストがおられる。契約を破りそうになっても保証人としてのキリストが代わって神と契約をしておられる。本人が信仰がなくなった、信仰を捨てたと言ってもイエス様がいる以上、事実上契約関係は切れていない。そこに信仰の絶対性、確かさがあると言って「血と契約」という本を書いた。聖書は旧約聖書新約聖書で成り立っているがそれは、古い契約と新しい契約との契約論である。契約論がわからなければキリスト教がわかっていないと言える。かくして岩村は42歳の頃、第二の改心(conversion)、心を変えるという経験をした。

表面上は変わりはないが、心の中では非常に大きく変わり、契約により信仰する、そしてその信仰を継続していく。日本的には義理を立てて、信仰を一生守る義理堅いクリスチャンにならなければならないということである。この応用問題は大変広く、キリスト教の家庭問題においても、また人類の歴史においても、契約社会が一番新しいもので、それが民主主義であると展開した。

成熟論

一方、成熟、未熟を人類の歴史という観点からみれば、戦後、日本は形としては民主主義の形をとったが、一人一人の個人のパーソナリティにおいてはまだまだ未熟なものが多い。「なおも未熟な日本人」という本では、10ほど未熟を指摘して、もっと成熟しなければならない、紛争なども成熟することで解決できることがあると提案している。

最後に我々の信仰生活も伝道により、信者を導き、洗礼を受けるということが大事である。洗礼を受けた後はどうしたらよいか。今まであまりはっきりしなかったが、ただ生きて、クリスチャンとしてご奉仕をするだけでなく、洗礼を受けてから人間としてさらに成長するようにしたい。はじめは子供のような信仰だったが、やがて大人の信仰になり、全くなる。イエスが「神が全きようにあなた方も全くあれ」と言われた。それをめざして私たちを励ましてくださる、これが教会生活の中で一人一人が考えなければならない大きな問題である。「古いものに留まってはいけない。絶えず新しくなれ」という教えである。[8]


  1. ^ 『キリスト教年鑑2015年版』キリスト新聞社、2015年、1072頁。
  2. ^ 2014年7月25日早朝、召天した。葬儀は2014年8月2日(土)午後2時より日本基督教団大森めぐみ教会にて執り行われた。
  3. ^ 日本キリスト教文化協会 顕彰者一覧※2022年10月23日閲覧
  4. ^ ライブニッツの論には、モナド一元論があり、キリスト教の一元的な唯神論は役に立つと言われている。
  5. ^ 祖父小崎弘道の恩師新島襄が卒業したアンドーヴァー神学校の後身
  6. ^ 英国人で後アメリカに移る
  7. ^ アメリカにメイフラワー号でやってきたあのグループである。
  8. ^ 岩村信二(2010年11月)


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