寺田勇吉 寺田勇吉の概要

寺田勇吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/06 02:40 UTC 版)

寺田勇吉
誕生 (1853-07-17) 1853年7月17日
嘉永6年6月12日
武蔵国江戸四ツ谷
(現:東京都新宿区
死没 (1921-10-11) 1921年10月11日(68歳没)
職業 官吏教育者
国籍 日本
最終学歴 東京開成学校鉱山学科(中退)
代表作 『育児論』(1892年)
『学校改良論』(1898年)
『寺田勇吉経歴談』(1919年)
配偶者 恒子(篠本信也三女)
子供 長子(長女・山中新太郎妻)
高子(次女・橋爪哲造妻)
吉子(三女・田島勝太郎妻)
勇一(長男)
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東京高等商業学校一橋大学の前身)、日本橋高等女学校(日本橋女学館高等学校の前身)校長、日本体育会体操学校(日本体育大学の前身)女子部長、九段精華高等女学校長を歴任した。

経歴

四谷幕臣寺田高吉の次男として生まれる。戊辰戦争の際には彰義隊に加わった[1]1970年明治3年)より大学南校開成学校)で、ドイツ学・鉱山学を学び、1874年(明治7年)より鉱山局に出仕した[1]1878年(明治11年)より太政官に出仕し、東京外国語学校教諭、大学予備門教諭、第一高等中学校教諭を務め、外国語教育に当たった[3]。欧米諸国への視察を経て、文部省参事官・第一高等学校教授、文部書記官・文部省参事官、視学官を歴任[3]1902年(明治35年)、高等商業学校校長に就任した[3]

その後、東京市教育会の設立や日本橋高等女学校の創設に加わった[3]1905年(明治38年)、精華学校を開校し、1911年(明治44年)には九段精華高等女学校を開校した[3]。さらに日本体育会体操学校女子部の運営にもあたった[3]。大正10年10月11日卒去。墓所は音羽護国寺共葬墓地。

栄典・授章・授賞

著作

寺田勇吉
著書
訳書
編書
  • 『万国統計表』 嘉村今朝一共編、山中市兵衛、1882年11月
  • 独英和 三対字彙大全』 高良二共訳、共同館、1886年1月
  • 独英和 三対小字彙』 保志虎吉共著、共同館、1893年9月
  • 『商工修身教科書』 古川義天共編、中外図書局、1905年3月(4冊)

  1. ^ a b c 人事興信録 1915.
  2. ^ 『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ、2004年。
  3. ^ a b c d e f 寺田勇吉特旨叙位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A11112966800 
  4. ^ 『官報』第379号「賞勲叙任」1884年10月1日。


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