安政の大獄
注釈
- ^ 全体では吉田松陰が最後の刑死者となる。
- ^ 徳川四天王を祖に持ち、家康時代以来の家として、譜代大名筆頭を自他共に認めていた井伊家の減封は、聖域に手を入れるに等しい大処断である。直弼のもとで、安政の大獄で活躍した彦根藩士の長野主膳と宇津木景福は藩主井伊直憲の命令で処刑された。
- ^ 譜代筆頭の井伊家と親藩筆頭の越前松平家(福井藩)の間には、江戸時代を通して家格や席次を巡る因縁があり、また両者は領地替えを画策された因縁があった。
- ^ 当時の五手掛を含む幕閣など。文久2年(1862年)度中期から後半に一斉に処分されている。大獄の当時の老中の間部詮勝は隠居謹慎と1万石減封、大獄の当時の京都所司代酒井忠義は隠居謹慎、大獄の当時の寺社奉行松平宗秀は酒井の後任の京都所司代となるも朝廷の圧力により赴任できないまま罷免および溜詰格に昇進していた家格の剥奪、江戸北町奉行石谷穆清は公職罷免および隠居謹慎。勘定奉行池田頼方は寄合肝煎だったが、桜田門外の変に際して大老直弼の死を隠蔽した罪により肝煎を罷免され寄合になった。大目付の久貝正典は2000石減封の上、免職隠居となった。京都町奉行小笠原長常は文久2年(1862年)時点では江戸北町奉行と政事改革御用掛を兼任する重用ぶりであったが、書院番頭に左遷された上で免職および隠居処分となった。
- ^ a b c d e 幕府の処分案で示されるも、孝明天皇により却下された。
- ^ 東坊城は、幕府の示した当初案では名は挙げられなかった。が、彼がかつて武家伝奏として、幕府寄りの立場で関白九条尚忠に同調した過去を追及した孝明天皇の強い意向により、永蟄居を命じられた。
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